scene 21. ユーリとアンディ

 背中におぶった子供に傘を持たせ、手には玩具店のプラスティックバッグをぶら下げて、ユーリは雨の中トラムの線路と並行する舗道を歩いていた。

 ショッピングモールやレストラン、カフェなどの多い賑やかな通りはちょうどお昼時でもある所為か、こんな天候でも人通りが多かった。赤く塗られた壁が一際目立つ、アメリカ発祥の世界一有名なハンバーガーショップには、行列までできている。

 ユーリが十六歳の頃――二〇〇二年にも大規模な水害があったというのに、皆あまり警戒しているようには感じられなかった。もう記憶が薄れてしまったのだろうか。そうでないならあの後、地下鉄などを始め、しっかりと対策が講じられたことを知っていて、あれほど酷いことにはならないと高を括っているのかもしれない。

 ま、自分もこうして出歩いているのだから偉そうなことは云えないがな、とユーリは思った。しかし、こんな日にひとりで彷徨いていたこの子供だけは、なんとかしなければいけない。ユーリは静かに響く低い声で、子供に向かって肩越しに尋ねた。

「おい、もう諦めて、家を教えろ。俺だってこんなことしてる暇はねえんだよ」

「だったら降ろして、もうほっとけばいいだろ! 関係ないだろ、離せよ、人攫い!」

「あーもううっせえな、喚くな。家だけ教えろって、アンドリン」

「……なんで名前」

「ばーか。靴に書いてあんじゃねえか」

 ユーリがそう云ってやると、アンディは抱えられた脚をぶらぶらと動かした。

「……アンディだよ。みんなそう呼ぶ」

 やっと名前を云った子供に、ユーリはにっと口許だけで笑った。すると、負け惜しみのつもりなのかアンディは、こんなことを云いだした。

「あんた、ユーリだろ? ジー・デヴィールのドラムの」

「なんだ、知ってたのか。家まで案内してくれたらサインしてやってもいいぞ」

「いらないよ。っていうか、なんで俺がおんぶされなきゃいけないんだよ。降ろせよ」

「うっせえ。このほうが濡れねえだろうが。それにこんなでかい荷物持って傘も持って、そんでおまえが逃げねえように手を引くなんて無理だろうが」

「手なんか繋がなくていいじゃん、ガキじゃあるまいし」

「ガキだろ。父ちゃん母ちゃんに心配かけるようなことしてんだから」

「……あんな奴、パパじゃない……」

 ぼそりと耳の傍で聞こえた言葉に、ユーリはふと足を止めた。

「……事情は知らんが、まあ親だなんて思えないような奴も、いないわけじゃないわな」

 よいしょ、とその場にしゃがみ、ユーリはアンディを背中から降ろした。そしてくるりと向き直り、目線を合わせるように膝を折る。

「じゃあ、どうする。問題があるんなら然るべき場所へ送っていくが」

「……然るべき場所って?」

「そうだな、まずは警察か、それとも直接、親に棄てられたガキが集まる保護施設に連れてってやろうか。どっちがいい?」

「……やだよ、そんなの……。うちはそういうんじゃないよ……」

 人攫いと喚いていた元気はどこへやら、途端にしゅんとおとなしくなったアンディに、ユーリはほっとした。

 きちんとサイズの合った服を着ているし、髪なども清潔にしているようなのでその心配はないだろうと思ってはいたが、暴力やネグレクトなどの虐待を受けて逃げだしたというわけではないようだ。

「でも、帰りたくないってわけか?」

 アンディは俯いたまま、こくんと首を縦に振った。

 となると、ただの親子喧嘩か。最初にみつけた場所から察するに、親と一緒に出かけた先でなにか気に入らないことでもあったか、とユーリは推測した。

「腹は? 減ってないのか」

「……減ってたらなんだよ。なんか食わしてくれんの」

 悩みのあるとき、気分が落ち込んでいるとき――腹を空かせてちゃいけないのだと以前誰かが云っていた。さあて、どうするかな……とユーリは少し考え、辺りを見まわしながらよく知ったプラハの地図を頭の中に思い描くと、アンディの手を引いてまた歩きだした。




       * * *




 ヴィノフラディのフラットに戻ると、ふたりは順にシャワーを浴びてさっと汗を流し、着替えを済ませた。冷蔵庫にはまだいろいろと残っている料理があったが、テディが腹は減っていないと云うので、ルカはターニャの病院の帰りにでもどこかへ寄ればいいかと喉だけ潤し、またすぐに部屋を出た。

 病院までは車で十分ほどの距離だったが、まだプレゼントを用意していなかったため、ルカは花などを買うためにショッピングモールへ立ち寄った。

 タクシーにテディを待たせたままルカはどんどん店の奥へと進み、先ずフラワーショップをみつけ、そこで足を止めた。店員に出産祝いだと云うと持ち手のついたバスケットのフラワーアレンジメントを薦められたので、じゃあそれのもう少し大きなものを、と注文した。そしてベビー用品は何処かと尋ね、ルカは大きな花籠を抱えて教えられた売り場に向かった。

 どっちを向いてもパステルカラーの売り場に佇み、なにがいいのかわからず途方に暮れているといらっしゃいませ、本日はどのようなものをお探しでしょうと店員が寄ってきた。ルカは一万コルナくらいで出産祝いを見繕ってくれとその店員に丸投げし、薦められたものをすべて購入した。

 その結果、ベビー服のセットとスタイやスワドルのセット、音が鳴る大きな犬のぬいぐるみと大荷物になり、ルカはテディも連れてくればよかったと後悔した。

 タクシーに戻ると案の定、テディが目を丸くしてその大きな花籠と三つのプラスティックバッグを見た。

「いったいなにを買ったの」

「実は、俺もよくわかってない。プロに任せた」

 テディは呆れたように笑い、「まったく、ルカって……」と云いかけて、言葉を切った。

「うん?」

 ルカは聞き返したが、そのときタクシーが地下駐車場を出て、車内には雨が叩きつける音が充満した。いやあ、ちっともやみませんねえ。また川が溢れなきゃいいんですがねと運転手が話しかけてきたので、ルカは営業用の貌になり暫し世間話に付き合った。この愛想の良さはもう、習性のようなものである。

 そのあいだ、テディはずっと黙ったまま、窓の外を眺めていた。




       * * *




 人通りの多いエリアから少し外れたところにある、通好みなアイリッシュパブでユーリはアンディと並んで坐っていた。席の向かい側には病院へ持っていくプレゼントの袋を置き、アンディは奥に坐らせユーリは通路側に陣取っている。いきなり逃げられたりしないようにとそうしたのだったが、もうアンディがユーリに逆らおうとする気配はなかった。保護施設に連れていくと云ったのが、よほど効いたらしい。

 テーブルにはさっき行列のできていた店の三倍ほどの厚みがある――値段も三倍近かったが――ハンバーガーのセットがふたつ並んでいて、ユーリはキルケニーというレッドエール、アンディはメニューに『お薦め』と強調されていた生姜入りのレモネードを飲んでいた。齧りつくのにも一苦労な分厚いハンバーガーをやっとアンディが平らげたのを見届けて、ユーリもクリーミーな泡の赤いビールを飲み干すとさて、と質問を始めた。

 初めのうち、アンディはまだ素直に答えるのを渋っていた。だがユーリが根気よく聞きだしたところによると、今日は自分の十二歳の誕生日で、別居している父親と会うために母親に連れられて、待ち合わせのカフェに行ったのだと云う。そして、そこに現れた父親が女性の恰好をしているのを見て、つい逃げだしてしまったのだと。

「――そうか。まあ、まったく知らなかったのにいきなり親父が女装してきたら、驚くのも当然だな。つーか、驚いただけじゃすまんよな。どう思った?」

「……びっくり、した……。えっ、嘘だろって……」

「だよな。で?」

「……パパ、って……呼べなかった……」

「パパじゃないって思ったってことか? さっき、そう云ってたよな」

 ユーリがそう尋ねると、アンディは少し考えこむように俯き、首を横に振った。

「……周りに他の客とか、店の人とかいたから……パパって云えなかったんだ。なんだか……見られるのが、これが俺のパパだって思われるのがいやだった。だから俺、おまえなんかパパじゃないって、そう云って逃げたんだ……」

 深刻な表情で言葉を押しだすアンディに、ユーリは笑った。アンディがむっとしたように口先を尖らせて、ユーリを睨む。

「なんで笑うんだよ!」

「いや、おまえがそう云ったことを後悔してるからさ。酷いことを云ったって思ってるんだろ?」

 ユーリがそう云ってやると、アンディはまた俯き――ぽろぽろと泣きだしてしまった。これにはさすがのユーリも焦った。思わず周りを気にしつつ、ユーリはアンディの肩に手を置き、慌てて宥めた。

「おっ、おい……泣くんじゃねえ。俺が泣かしたみてえだろうが」

 アンディはぐっと歯を食いしばるようにしてレモネードを飲み、Tシャツの襟を引っ張って目許を拭った。

「……俺、ほんとは知ってたんだ……。パパが家にいたとき、夜中にこっそり女物の服とか着て鏡の前に立ってるの……見たことあるんだ。……でも俺、一緒にいるときはなんにも云わなかった。知らないふりをしてたんだ……」

「それは、なんでだ?」

「……知らない……、わかんないよ。なんとなく云っちゃいけない気がしたんだ。もしも云ったら、もうパパじゃなくなっちゃうって思ったのかも」

「女の恰好をしてたら、父ちゃんじゃねえってか?」

 ユーリがそう問いかけると、アンディは窓の外に顔を向け、少しのあいだ黙りこんだ。そうしてなにか考えこんだあと、こっちを向いて「ねえ……ちょっと訊いてもいい?」と云ってきた。なにをだろうと思いつつ、ユーリは「ああ」と頷いた。すると――

「……ルカとテディって、恋人同士なんだろ。どっちかって……女の恰好したりするの……?」

 意外な質問が飛んできて、ユーリはおかしくてつい吹きだし、首を横に振った。

「いいや、あいつらは女の恰好はしない。どっちも性自認……って、難しいか。自分のことを男だと自覚してて、それに違和感も女になりたいとかって願望もないふつうの男だ。ただ、愛した相手が自分と同じ男なだけでな」

「……ゲイ、ってことだよね。じゃあ、パパはなんなの? オカマŘiťopich?」

 ユーリはかっと目を見開いて躰ごとアンディのほうを向き、真っ直ぐに顔を見つめながら真剣に云った。

「……どこでそんな言葉を覚えた。いいか、もう二度とそんな言葉を口にするんじゃないぞ。父ちゃんに云ったりするなんて以ての外だからな。俺と約束しろ」

 アンディは少し怯えるように眉をひそめたが、ちゃんとユーリの目を見て頷いた。よし、とユーリは頭を撫でてやる。

「やめろよ、子供じゃないって」

「わかった。ガキじゃねえってんなら、今から話すことをちゃんと聞いて理解しろよ? ……いいか、心の性とか躰の性とか、好きになる相手の性とか、そんなもんはもうややこしくてちっともわかんねえほどいろいろあるんだよ。俺やテディなんかはまあ、まだシンプルなほうだ。だからこうしてちょっと話を聞いたからって、おまえの父ちゃんがそのどれに当たるのかなんて、俺にはわからん。人それぞれなんだよ。

 だがな、ひとつだけ皆に共通することがある。……初めてそれを誰かに打ち明けようと決めたとき、それはものすごく勇気や覚悟や、心構えが要るってことだ。それは、まだ世の中がそういうもんだからだ……残念なことにな。おまえがパパって呼ぶのを躊躇ったのも、それが原因だ。だから、おまえばかりが悪いんじゃない。心構えができてなかったんだ、しょうがないことなんだ。

 で、まあ、なかにはそういうことに気づかないでカムアウトしちまった奴もいるだろうが……そのとき問題がなかったとしても、みんな必ずどっかで一度は後悔する。後悔したくなるようなことに行き当たっちまうんだ。撤去しきれてない地雷みたいなもんだ。だから、おまえの父ちゃんも初めて女の服着ておまえと会うとき、戦場に行くくらい肚を括って行ったはずさ。おまえがどんな反応をするか……半端な覚悟じゃできないことだと思うぞ。だけど、やらなきゃいけなかったんだ、たぶんな」

 アンディの表情が微かに曇る。

「……そんなに……覚悟が要るのに、なんで……」

「なんでだと思う。考えてみろ」

 暫しの間、アンディは黙ってじっと考えこんでいた。そして、さっき流したのとは違う種類の涙をぽろりと溢したのを見て、ユーリは笑みを浮かべ、云った。

「立派な父ちゃんじゃねえか。羨ましいくらいだぜ」

 ぐすっと洟を啜り、手の甲で涙を拭いながらアンディはこくりと頷いた。ユーリがふっと笑いながら髪をくしゃっと乱しながら頭を撫でると、ガキじゃないってばと赤くなった目で睨まれた。

 煙草が吸いたいなと思いながら、ユーリは窓の外に目をやった。通行人になにやら注意しながら歩いている警官の姿に気がつくと、ユーリはやれやれと大きく息を吐き、レモネードを飲み干そうとしているアンディを見た。――どうやらあの制服をとっ捕まえて、頼る必要があるらしい……苦手なんだが、しょうがない。

 そろそろ出るか、と腕時計を見る。時刻は一時四十分、雨はようやく勢いを弱め始めたようだった。

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