scene 20. I Can See Clearly Now

 ヴルタヴァ川周辺で警戒にあたっていた警官に子供がいなくなったことを伝えると、警察はすぐに無線で背恰好などの情報を共有してくれた。

 一部の人員を捜索に割き、それ以外の警官にもそれらしき子供を見かけたらすぐに保護するよう指示してもらったと説明し、若い警官は連絡が取れる状態でどこか安全な場所に待機していてください、と云った。少しほっとした様子で、小柄な女性――行方不明になった子供の母親であるというハナは、モバイルフォンの番号を警官に伝えてよろしくお願いしますと云った。

 まったくやみそうにない雨を落とす空を睨むように目を細め、ロニーたちはまた車に戻った。トランス女性――ミレナの靴は、ヒールが折れたのではなく爪先のほうが剥がれて、ぱっくりと口を開けてしまっていた。どこか靴屋を見かけたら寄りましょうとロニーは云い、ドリューはとりあえずこれで縛っておくといいと、メンズの大きめなハンカチーフを差しだした。ミレナは恐縮しながら云われたとおり爪先を包むようにしてしっかりと縛り、応急処置をした。

 警官に云われたとおり、どこか高台にあるカフェでも探して待つ? とロニーは尋ねたが、ハナも、一緒に暮らしていた頃はまだ女性の恰好はしていなかったという父親のミレナも、警察に任せてじっと待っているという気にはなれないようだった。当然だろう。

 ターニャのいる病院はもう誰かが訪ねているかもしれないが、別に慌てる必要はない。ロニーはアンディを捜すため、警官の姿がない道を選んであちこち車で走りまわった。途中、自分の車が少し先に置いてあるので、もう自分で捜します、とミレナが云ったが、平静な状態ではないのだからとロニーはそれをさせなかった。ただでさえ路面状況も視界も悪いときに、事故でも起こったら大変だ。ロニーは、私は運転に集中しているから、あなたたちは窓の外をよく見ていてね、と云ってひたすらに車を走らせた。人の姿を見かければ、停車して話を聞いたりもした。

 だが、カフェの店員や通行人に尋ねても、それらしき子供を見かけたという者は誰もいなかった。

「どこへ……どこへ行ってしまったのアンディ……! 私の、私の所為でこんな――」

「そうよ!! あなたがそんな恰好でさえ来なかったら……! あれほど云ったのにあなたは……ゆるさない、もしもアンディになにかあったら私、絶対にあなたをゆるさないから!!」

 あちこち車で捜しまわっているあいだ、ドリューがミレナとハナからいろいろ話を聞いていた。だが子供がみつからず、自分ではなにもできないことに次第に焦燥感が募ってきたのか、ハナがミレナを罵り始めた。

 ミレナは云われるまでもなく後悔に打ちのめされているようで、消沈した面持ちでがくりと項垂れている。

「落ち着いて! そんなふうに云ってもなんにもならないわ。アンディがいなくなる前から大勢の警官が川の辺りを見廻ってたんだから、少なくとも川でなにかあったなんてことはないはずよ。きっとどこかのお店にでも入ってるか、誰か親切な人に保護されて家の中にいるのよ。きっとそうよ」

「そうならいいんですけど……」

 ハナはそう答えたが、ミレナはもう返事をすることもできないほど落ちこんでいた。ロニーはなにか云うべき言葉を探したが、尚も激しさを増す雨の中、運転にも集中しなければいけないのでなかなか思いつかない。

 すると「差し出がましいかもしれないが――」と、ドリューがリアシートを振り返り、落ち着いた声で話し始めた。

「悪かったのはタイミングだけだと思う。息子さんの十二歳の誕生日を区切りに真実ほんとうの自分を知ってもらおうとしたあなたの勇気を、俺は後悔するようなことだとは思わない。こんな天候でさえなかったら、ここまで大事おおごとにはなってないはずだ……プラハに住んでて、アンディは普段ひとりで遊びに出かけたりしているんだろう?」

 ミレナは黙ったままだったが、ハナが「ええ」と頷く。

「ハナさん。あなたは、自分の夫が変わってしまってショックだったのだろうが、実際はこうして会ったりしているんだ。本当は自分がどう接すればいいか、途惑ってるだけじゃないのか?」

 ハナははっとしたように顔を上げ、そしてミレナを見つめた。

 ドリューは少し考えるように視線を落とし、続けた。

「……実は今、俺たちの仲間のひとりが記憶喪失の状態にある。なにもかも忘れてしまった彼と付き合いの深い仲間は、いろんなことをこらえながら世話を焼いているんだが……恥ずかしながら、俺はなんにもできなくてな。これまでのことをなんにも憶えていない、まるで別人のようになってしまったその仲間に対して、どう接すればいいのかわからなかったんだ」

 ロニーはその言葉を聞いて、ちらりと横目でドリューを見た。

「けれどずっと考えていて、俺は思ったんだ。たとえ彼がすべてを忘れてしまっても、まるで子供みたいに性格が変わっても、そんなことはどうでもいいことなんだってな。あいつが憶えてなくても、ちゃんと俺たちが憶えてる。記憶は失われても、俺たちが出逢ってからいろいろやってきたことは、なかったことになったりしていない。ちゃんと積み重ねてきたものがある。一緒に過ごした時間が消えてしまったわけじゃないんだ。だから今までのとおり、なにも変わらずに接すればいいんだってな」

 ドリューの話に聞き耳を立てながら、ロニーはバックミラーでちらちらとハナとミレナの様子を見ていた。

 積み重ねてきたもの、一緒に過ごした時間、という言葉はロニーの胸にも響いたが、そのときハナとミレナの表情にも、柔らかく暖かい光が落ちたように見えた。

「だから……うまく云えないが、息子さんも女性の恰好をした父親にショックを受けたからといって、掌を返したように嫌いになったりはしないと思う……口ではいろいろ云うかもしれないが、そんな単純なもんじゃない。はじめは受け容れられない部分もあるだろうが、一緒に過ごしていればきっと以前とはなにも違っていないってことに気づけるはずだ。

 記憶を失った俺らの仲間も、食べ物の好みなんかは変わっていなかった。それを知ったときはなんだか希望が見えた気がしたよ。ほっとしたっていうか。まあでも、彼と暮らしている恋人はなんとしてでも記憶を取り戻させるって結論に達したみたいだがな。今のテディは本当のテディじゃないみたいなんだとさ。――ハナさん、あなたにとって本当のミレナさんってのは、どのミレナさんだい?」

 ハナはなにか考えこむように俯いてしまったが、ミレナはゆるゆると首を横に振って、云った。

「……ハナにとっては、女性として在りたいっていう気持ちなんかは押し殺して、ちゃんと男の恰好をして、父親として恥ずかしくない喋り方をするミランしかいなかったはずよね……。だって私、自分が苦しくて堪えられなくなってカムアウトするまで、ずっと隠していたんだもの……あなたもアンディも、驚いてあたりまえよね……。やっぱり私が――」

「苦しかったの?」

 不意にハナがそう尋ね、ミレナは言葉を切った。

「堪えられないほど苦しかったの? そんなふうに思い詰めるまで、ずっと父親を演じてくれていたの……?」

「……父親を演じてたわけじゃないわ。アンディは本当に大切な、なによりも大切な私の息子よ。ハナ、あなたも世界でいちばん大切な、誰よりも愛してる人よ。私は女として生きていきたいって思いがいつからか強くなったけど、男が好きなわけじゃないの。花模様のスカーフやワンピースや、お化粧や可愛いものが好きなだけなのよ。男として振る舞うことに疲れたの。自分じゃない誰かのふりをするのが苦痛でたまらない、ただそれだけ。こんな私だけど、アンディの父親をやめたいだなんて思ったことは一度もないわ……ワンピースを着てキャッチボールの相手をしちゃいけない?」

「……ピンク色のトラックスーツを着たほうがいいわ……、ワンピースじゃちょっとね」

 バックミラーに映るハナの、ついさっきまで頑なに強張っていた表情は、仮面が剥がれたように和らいでいた。

「……失格だったのは父親としてのあなたじゃなくて、妻としての私のほうだったのね……」

 ミレナは泣きそうに顔を歪め、首を横に振った。

「あなたが失格だなんて、そんなことあるわけないわ……。失格なのは、約束を破ってこんな恰好で会いにきた私のほうよ。私の所為でアンディになにかあったらって思うと……ああ、なによりも大切って思っていたはずなのに……、本当に後悔してる。私のことをわかってほしいって気持ちは消えないけど、私も、簡単に受け容れられるようなことじゃないって、もっとわかってなきゃいけなかった。

 それに、電話であなた、もうドレスも化粧品も要らない、要るのはハンドクリームくらいだって云ったでしょ? あれ、ちょっとショックだったわ……偶にお洒落をして出かけたり、したいことができるようにもっと時間を作ってあげるべきだった……。アンディだってそうよ。少しは家のことをお手伝いさせないと、いざってときに困るわ。私、ひとりで暮らしてみてそれがよくわかったの。ひとりっ子だからって甘やかしすぎたかもしれないわ」

 ぐすっと涙を拭いながら、ハナは笑って何度も頷いた。

「ええ、そうよね……みつけたら、こんなに心配かけてって叱ってやらなくちゃ」

 どうやら拗れていた夫婦仲は改善の方向へ向かいそうだと、ロニーはほっとした。ドリューもにっと口許に笑みを浮かべながら、シートに背をつけて坐り直す。

 すると、なにやらミレナがじっとドリューの長いブレイズヘアを見つめているなと思ったら――「あの、今気づいたんですけどひょっとして」と、シートのあいだから覗き込むようにしてこう云った。

「ジー・デヴィールの……ギターの方ですよね? それに……さっき、テディって――」

「え! ジー・デヴィールって、あの!? テディって、じゃ、じゃあルカ・ブランドンの恋人でベースのテディ・レオン!? ……えっ、記憶喪失になってるんですか!?」

 ハナが興奮気味にそう訊いてきて、ロニーは困ったなと思いながら「ええ、そうなんだけど……そのことについては公表していないの。だからここだけの話にしておいてね」と頼んだ。ふたりがわかりました、とそれを了承してくれたので、ロニーは今度CDやグッズをプレゼントするわね、と云った。

「……ありがとう。アンディがきっと喜びます。ファンなんです」

「えっ、そうなの? 私、知らなかったわ」

「最近なの。次から次へと興味のあることが増える年頃なのね……」

 それを聞いてロニーはおや、と思った。

 ルカとテディが一緒に暮らしている恋人だということを、アンディは知っているだろうか。もしも知っていながらファンだというのなら、性的指向と性自認や性表現という違いはあるにせよ、ミレナの恰好に驚いてしまっただけで、落ち着けば理解を得ることは難しくないのではないだろうか? いや、もちろんLGBTフレンドリーでなければデヴィッド・ボウイ、フレディ・マーキュリー、エルトン・ジョンらの音楽を聴かないなんてことはないとわかってはいるけれど――。

 なんとなくいろんなことが良い方向へ向かう手応えを感じつつ、ロニーは手掛かりもないままずっと車を走らせているのもなんだし、とハナとミレナに断り、とりあえずターニャのいる病院へと向かうことにした。

 時刻は午後一時十五分を過ぎたところ、まだ雨はやむ気配を見せず、降り続いていた。

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