scene 1. アクシデント

 ロンドンの空は移り気だ。

 もう四月も半ばを過ぎたというのに気温はまだ春を自覚していないのか、夜から朝にかけて冬に戻ったかのように冷え込む日がある。陽が高くなり、ようやく小春日和な暖かさを感じたと思っても、次の瞬間には灰色に染まった空が降りてきて、さーっとシャワーを撒いていく。

 大抵はにわか雨で、南国のスコールに伴った雨のように強くもない。まるでいたずらっ子が如雨露じょうろを振りまわしたかのようなぱらぱらとした雨が降りだすと、慣れている地元民たちは慌てて傘をさすこともなく、フードをかぶったりする程度でやり過ごす。


 チェコ共和国、プラハを本拠地とし世界中で人気を博しているバンド、ジー・デヴィールとそのスタッフたち一行は、ロンドン南部にあるブリクストンアカデミーへ、チャリティイベントコンサートのためにやってきていた。

 ブリクストンアカデミーは、スタジアムなど全周を観客席で囲まれたアリーナを除けば、ロンドンではいちばん大きなコンサート会場である。収容人数キャパシティはオールスタンディングで約五千人ほどだが、ローリングストーンズやボブ・ディランなどもライヴを行ったことがある、ロックファンにはお馴染みの会場だ。

 そのブリクストンアカデミーで行われるチャリティイベントにジー・デヴィールも出演することになり、今は割り振られた時間を使って実際のステージでの最終リハーサルの最中だった。たくさんのアーティストが出演するこういったイベントでは、アーティストごとの音響調整や特殊効果など、綿密な打ち合わせと確認が非常に重要なのである。

 既にパートごとの細かな調節なども済み、チーフマネージャーのロニーがステージ脇で見守るなか、セットリスト順に本番さながらの演奏をしているところだった。が――

「――ストップ、ストップ!」

 ユーリが演奏を中断し、スティックを握ったままドラムを叩いていた腕を大きく振った。マイクスタンドに向かっていたルカはユーリを振り返り、そしてその視線の先にいるテディを見て、眉間に皺を寄せた。

「テディ、走りすぎだ。それじゃ合わせられない」

 ユーリが云うのを聞いてルカははぁ、と溜息をつき、キーボードの向こうで困った顔をしているジェシと視線を交わした。反対側を見やると、いくつも積みあげられたギターアンプの前でドリューも腰に手をあてて、やれやれというように様子を窺っている。

 そして注意を受けたテディは――不機嫌さを隠そうともしないむすっとした表情でベースギターのストラップを肩から下ろし、投げやりにこう云った。

「なんか気分が乗らない。ちょっと休憩してくる」

「休け……って、おまえ」

「テディ、そんな時間はないってわかってるだろ。俺らだけのライヴじゃないんだぞ、このあと次のバンドももうそこに控えてるんだ。ちゃんと真面目にやれよ」

 ルカは思わずテディに向かってそう云い、同時にしまったという顔をした。



 ――インタビューで『テディが自分に本当に惚れていたことなんてないかも』とルカが答えた記事を読み、怒ったテディと大喧嘩をしてから、まだ一週間も経っていなかった。

 ふたりがちょっとしたことで喧嘩をするのはめずらしくもなかったが、今回は長引いていた。ルカはすぐに謝ったし、あれこれと言い訳をしたりもしていたが、テディの機嫌は一向に直らなかった。そのうちさすがにルカのほうも苛立ってきて、そんなに引っかかるのは図星だからじゃないのか? なんてことをつい云ってしまい、ふたりの仲はほとんど口を利かないところまで拗れていた。

 そしてテディは他のメンバーにすら笑顔を見せない日が続き、その影響が演奏にまで及ぶ状態のまま、チャリティイベントのためのリハーサルも大詰めを迎えたのだった。



「……俺が真面目にやってないって、ルカはそう思うんだ。俺の調子が悪いとか、つい走っちゃったって思わないんだな。……まあ、しょうがないよね。あのインタビューでよーくわかったけど、ルカはちっとも俺のことなんて信用してないんだから」

 ほらきた、とルカは内心でうんざりしつつも「いや、テディ――」と首を振り、宥めようとした。

「今インタビューの話とか関係ないだろ。それに、別におまえが真面目にやってないなんて思ってないよ、言葉のあやさ。時間が限られてるから、ちゃんとやれって云いたかっただけだって」

「だから俺はちゃんとやってるって。ちゃんとやってこれだから、気分転換しようと思って休憩してくるって云ったんだ」

「だから休憩するような時間はないって。いろいろ気に入らんことがあるのはわかったけど、演奏してるときは余計なこと考えないで集中しろよ」

「……余計なことを云ったのは誰だよ、くそ」

 テディはルカのほうを見ようともせず、ベースキャビネットの後ろに控えているベーステックのエミルに愛器を渡すと、ステージの端へと歩きだした。ドラムの前を横切り、ユーリが「おいテディ、待て」と止めるのにも、ドリューが「テディ、どこへ行くんだ」と訊くのにも耳を貸さず、太いケーブルが這っているところをすたすたと歩いていく。

 慌てたように立ちあがったユーリを見て、ルカは云った。

「ああもう、放っとけこんな奴!」

 その言葉はテディにも聞こえたらしい。テディは険しい顔で振り返り、つかつかとルカに近づきながら声を荒げた。

「こんな奴で悪かったね! どうせ俺は、本気で惚れてもいない相手に今までずっと愛してるって云い続けてきた大嘘つきなんだろうさ! ああ俺にルカの真似なんかできないよ! ルカみたいな、いつでもなんでも誰に対してもクソ正直に云わなくてもいいようなことまで全部喋っちまうような単細胞バカじゃなくてよかったよ!!」

 普段、滅多にこんなふうに喚くことなどないテディに、ドリューやユーリたちは目を丸くした。テディは不満を一気に噴きださせるように四文字言葉フォーレターワードを駆使した罵詈雑言をルカに向かって浴びせ続けていたが――

「単細胞バカ!? 俺が単細胞バカならおまえはなんだよ、この尻軽のド畜生が!」

「なんだって!?」

「ルカ!! 云い過ぎよやめなさい! テディもいいかげんに――」

 とうとうルカも我慢できずに云い返し、険悪さを増してきた雰囲気に、慌ててロニーが止めに入る。

「よーくわかったよ! それがルカの本音なんだな、もういいよ! お終いだ!! 新しい恋人でもベーシストでもなんでも勝手に探せよ!!」

「ええっ、ちょっと、なに云ってるのテディ! 待ちなさい!」

 とんでもない言葉を吐き棄ててすたすたとステージ脇へと歩いていくテディに、ルカは呆れと怒りのままにこう云った。

「まったく、おまえは昔からちっとも変わらないな! ああお終いでけっこうだよ、けど仕事だけはちゃんとやれって! だからこんな奴って云われんだよ!!」

 気色ばんだ表情でテディがまた振り返る。そして、つかつかとルカに向かっていこうとし――ステージの際をのたくっている太いケーブルに足を引っ掛けた。

「うわっ――」

「――危ない!!」

 がくんとバランスを崩し、踏み止まろうとした足が、運悪くそこにあったエフェクターボードを踏んだ。バランスを崩したまま、足はそのままエフェクターボードごとずざっと床の上を滑った。そしてテディはステージの端から観客席側へぐらりと躰を傾けたかと思うと――そのまま、およそ六フィートの高さから転落した。

「テディ!」

 真っ先にルカと、近くにいたドリューとロニーが飛びつくようにして下を見る。周りで作業していた会場のスタッフたちもざわめき、瞬く間に数人がテディを取り囲んだ。

 いちばん離れたところにいたジェシとユーリも傍までやってきて、ステージの上から心配そうに覗き込む。ルカは真っ青な顔でステージから降りて駆け寄り、倒れたまま動かないテディの躰を揺さぶった。

「なにやってんだバカ! おいテディ、しっかりしろ! テディ――」

「テディ、大丈夫!? どうしたの、頭を打ったの!? おねがい返事をして!!」

「大丈夫ですか――意識がない? ……おい誰か、救急車呼べ!」

「テディ、なあテディ、ふざけんな、起きろ。テディ――」

 騒然とするなか、ルカは坐りこんでテディを抱え、ひたすら名前を呼び続けた。





 ブリクストンアカデミーに救急車がやってきて、意識のないままテディが運ばれていったのはそれから十六分後のことだった。

 顔色を失ったまま一緒に乗り込もうとしたルカを、ロニーは止めた。自分がちゃんとついているから皆と一緒にホテルに戻っていなさい、と彼女は云った。自分がついていなくてどうする、テディにとっては自分がいちばんの家族なのに――と思わないではなかったが、ルカは察してロニーに従った。

 コンサート会場からの救急車に、バンドのフロントマンである自分が同乗していけば目立ちすぎるうえ、運ばれたのが誰なのか、容易に推測できてしまう。まだ容態もなにもわからないのに、不要な騒ぎを起こすことは避けなければならない。

 そうとも、とルカは思った。イベントライヴの本番は明日なのだ。頭を打ったようだから、念の為ひととおりの検査は必要かもしれないが、きっとちょっと脳震盪を起こしただけだろう。骨でも折っていなければ、明日は演奏も問題なくできるに違いない。

 どちらかというと、自分たちふたりがさっさと仲直りして、テディがいつものように楽しんで演奏できるようにしなければいけない――ルカは、ホテルの部屋でそんなことを思い、まったくなんであんなことを云ってしまったのだろうと反省しつつ、どうやってテディの機嫌をとろうかと考えていた。

 夕食をホテル内のレストランで済ませ、そろそろ病院から戻るか、それともロニーから連絡があるかと時計を気にし始めたその数時間後――

 まだ連絡がないのは何故なのだろう、まだ意識が戻らないなんて、まさかそんなことは……と不安がぶり返してきたとき、やっとロニーからの着信があり、ルカは飛びつくようにして電話にでた。

 自分のなかでじわじわと広がっていた不安の影を振り払うように、きっと検査に時間がかかったのだな、と時計を見る。

「テディは?」

 もう、検査検査で疲れちゃった。いちおう大事をとって今夜一晩だけ入院するけど、大丈夫よ。――そんな返事を期待して、ルカは尋ねた。

 しかし返ってきた言葉は、期待したものとはかなり違っていた。

『……ルカ……、今から病院へ来てほしいの。とりあえずまだ誰にも云わないで、あなたひとりで』

 ロニーのその深刻な口調に、ルカの顔から表情が消えた。

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