第二十九話『再来』
中山さんと籍を入れてから早一年間。
俺と中山さんの仲は恋人の時のように良好――とは行かなかった。
未だに苗字呼びが健在なのは初々しいさからではなく、それだけ精神的な距離が離れているからで、中山さんが俺を呼ぶ時など「おい」だの「オマエ」だの「アンタ」だのと横柄なものである。
籍を入れた一年前には、“サッパリしている”、“快活で頼もしい”、“肝っ玉母ちゃん”などと中山さんのことを評したが、今となっては、“ガサツ”、“横柄”、“パワハラオヤジ”としか思えないのだから、俺の目も当てにならない。
「はぁ……」
そして、俺は手元のスマホを見て溜息をつく。
『今日夕飯いらん』
スマホ画面に表示された七文字。
おそらくは、これすらも前日のコピペだろう。
しかも、この中山さんから送られた七文字が、今日の俺達夫婦の唯一コミュニケーションとなるのだから堪らない。
「もうセックスレス以前の問題だな……」
中山さんとのセックスレス。
それは結婚前からの根深い悩みで、結婚してからも一年以上が経つというのに、俺は未だに中山さんとの初夜すら迎えられておらず、その惨めさたるや筆舌に尽くしがたいものがある。
中山さんとの夜の営みについて、当初は俺の身体も万全じゃなかったし、中山さんも『身体が良くなったらね』と気を遣ってくれていると好意的に解釈していた。
でも、だからこそ、俺は待たせてしまっている中山さんのためにもリハビリを頑張ったんだ
それなのに――。
『ブッ!アッハッハッハ!何よアンタ!そんなに興奮してぇ!えっ、私とするために必死扱いてリハビリしてたのぉ?アッハッハッハ!そんな童貞みたいっ……アッハッハッハ!ホント笑かさないでよっ!』
俺の努力は爆笑の下に切り捨てられた。
確かに、俺は鼻息荒く覚えたてのサルの如くにブサイク面で迫っていたかもしれない。
だから、この時のムードや相手のやる気をぶち壊してしまったのは俺の所為だと納得できる。
だが、それだけでは終わらなかったのだ。
結局その後にも、「アンタが笑いに走った所為でベッドに来てもそんな気分にならなくなった」と思い出し笑いと共に断られ続ける始末……。
当然、俺はキレて抗議した。
『いい加減にしろ!どうしてそんな態度なんだ!俺は中山さんのためにも頑張ったんだぞ!』
しかし、俺の言葉を受けた中山さんは、その温和そうだった顔を悪鬼の形相へと豹変させ、ドスの利いた荒い声で怒鳴り返し、最後には目覚まし時計をぶん投げて来た。
『ぁあっ!?私のため!?こっちがいつそんなこと頼んだっ!恩着せがましいんだよっ!これ以上はDVと家庭内レイプで訴えるからねっ!!』
もの凄い剣幕だった。
浮気発覚時に追い詰められて反発した心愛など可愛いもので、元から恰幅が良く骨ばった輪郭を持つ中山さんは、キレるとまんまヤクザのオッサンのようなド迫力だった。
しかも、弱気でしおらしい心愛に慣れ切っていた俺は、その迫力と飛んできた目覚まし時計も相まってすっかりと委縮してしまった。
『チッ!男の癖にっ――!』
そんな俺に対し、嫌悪を隠さず吐き捨てる中山さん。
いや、俺だってこの時は、“心愛相手にはあれだけ強く出てた癖に――”と自己嫌悪だったさ……。
でも現実問題、見た目ヤクザのオッサンで、二言目にはDVだの家庭内レイプだの騒ぎ立て、終いには物を投げて来るようなヤツを相手にどうしろと?
俺はその時、遅まきながらも再婚の失敗を悟って深く絶望した。
そして、これ以降は俺を嫌悪する中山さんと絶望して無気力となった俺との間で冷戦状態が続いている。
「はぁ……まさか、あの中山さんとこんな状態になろうとはな……」
いや、今にして思えば、付き合っている時から中山さんの言動にはアレ?と感じるところはあったんだ。
それなのに、俺は自分が弱っているところを優しくされて舞い上がり、中山さんに関することは全てポジティブに解釈していた。
今まで俺の主観で見て来た中山さんは、全く実態を伴っていない。
つまり、また俺の目は節穴だったと言うことだ。
「いい加減に学習しろよっ……!」
自分自身が情けなかった。
そして、こんな状況になって思い出すのが、随分と前に兄貴から受けた忠告だ。
『ブサイクな俺らが今の嫁さんを逃がしてみろ。特にお前の嫁さんは美人だから、それこそ他の男がほっとかねぇよ。それで後に残るのはなんだ? ブサイクから解放されてイケメンか金持ちかと再婚した元嫁さんと、身体が不自由になったバツイチのブサイクだ……』
言葉の順序は多少違うが、俺はこの兄貴の言については覆すことができたと思っている。
というのも、美人の心愛には未だに恋人は居らず、ブサイクな俺は結果がどうであれ再婚を果たしたのだから――。
「マジで最悪だな……我ながらさもし過ぎる……」
ぶっちゃけ、中山さんとの再婚で、自分は惨めじゃない、孤独じゃないんだと証明したい気持ちが無かったと言えばウソになる。
心愛とでは夫婦や恋人同士に見られなかったが、中山さんくらいなら自分と釣り合いが取れているという不遜な考えもあった。
俺だって、山中さんとの再婚には利己的な考えを持って居たんだ――。
「はは……その罰が当たったってか?」
ヘラヘラと乾いた笑いが漏れる。
中山さんも相当なもんだけど、それ以上に、俺は俺という存在がクソ過ぎて笑えて来た。
どうして俺はこんなにクソなんだ?
クソな顔面、クソな性格、クソな嫁にクソな人生……。
「嗚呼……俺が白い便器にこびり付いたクソならば……誰か勢いのある小便で狙い落としてくれ……」
もはや呟きすらも意味不明のクソだった。
しかし、いくらクソであったとしても、クソはクソなりにクソ現実をクソ見据えてクソ生きて行かなければならない――。
「はぁ……実際問題どうするかなぁ……」
未だに連絡を取り合っている元嫁の心愛に相談する?
いや、自分が何もしていない内から女に縋るとか、それこそ間男並みのクソだ。
俺は無い頭で考えた末、まずは中山さんが俺によるDVや家庭内レイプの証拠を捏造していないかを調べることにした。
だって、冷静に考えれば、二言目にそんな単語が出て来るなんて闇が深過ぎる。
俺が利己的な考えを持って中山さんと再婚をしたように、中山さんの方だって何かしらの考えがあったとしてもおかしくない。
「いや、冷静に考えれば、俺みたいな甲斐性の無いブ男と再婚する方が不自然だ!」
自分で言ってて悲しいが、客観的に考えればそうだ。
あやしい……ますます何かあるような気がした。
「探して、仕掛けるか……」
俺は思い切って、中山さんの部屋を家探しすることに決め、更には心愛時代にお世話になった小型のICレコーダーを引っ張り出す。
「上手く行くかは分からんけど――」
俺は中山さんの部屋へと向かった。
そして、久しぶりに見るその部屋の内部は、前に見た時よりも明らかに散らかっていた。
俺は部屋を眺めた後、本腰を入れて家探しを開始する。
チェスト、ブックシェルフ、クローゼット……。
そうして、しばらく無心で部屋を漁っていると――。
「おいおい……嘘だろ……?」
やはりと言うか、ギクリと心臓が固まるような物を見付けてしまった。
果たしてそこに出て来たのは、ゴムでまとめられた領収書の束とクリアファイルに入った数枚の借用証だった。
日付を確認すると、最近の物であることが窺える。
おそらく、前はもっと慎重に隠していたのだろうが、俺との冷戦状態と俺自体を舐め腐って管理がおざなりになっていたのだろう。借用証の方など、ブックシェルフに並んだ本の間から飛び出ていた。
「これはコピーだな。後はレコーダーか……」
スイッチを入れ、目立たないところに仕掛けておく。
「まぁ、これはダメ元だな」
きちんと声が拾えるか分からんし、中山さんが何か重要なことを呟くとも思えない。
正直、俺は気休め程度の気持ちで居た。
だが、後日このレコーダーに、とんでもない内容が記録されることになったのだった。
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