第二十六話『離婚』




 結局、間男のヤツは最後まで姿を現さなかった。


 そのため、俺にキチガイ三人衆をけしかけたのがヤツなのか、それは今でも分からず終いだ。


 最後の話し合いとなった日、間男の奥さん陣営とインフルエンサー浮気女との間にどんなやり取りがあったのかは分からない。


 でも最終的に、間男のヤツは奥さんとの離婚と両親からの勘当を受け入れ、その後はあのインフルエンサー浮気女と再婚した。


 それらの説明と共に、この件は口外されることなく解決と相成ったという結果だけが俺に知らされた。



『――高木さんも、この件についてはくれぐれも口外せず、どうかご自愛ください。そして、この度は大変お世話になりました。誠にありがとうございました』



 改めて読み終えて、俺は間男の元奥さんからの最後の報告メールを閉じた。


 結局、間男は制裁らしい制裁も受けず、セフレの背後に隠れ続けて逃げ回り、極め付けには慰謝料すら自分で払わなかった。


 ある意味すごいが、人としては醜悪の一言だ。


 特に、浮気の共犯である心愛の方が、俺の生活費から治療費、リフォーム代までを負担して、俺のイビリに泣かされながらも懸命に介助し、もう一人の被害者である奥さんにも土下座の上に慰謝料も払ったものだから、余計に間男の醜悪さが浮き彫りとなる。


 不公平だし、全然スッキリとしない。


 間男が失ったものと言えば、頭の悪いセフレハーレムくらいなものだ。しかも、それだって、セフレ女達の旦那や彼氏は知らない訳だから、ほとぼりが冷めた頃にまた復活する可能性だってある。


「チッ――それを考えると、一千万じゃ安かったか?」


 今更言っても意味はないし、取り交わした念書の都合上、口外することもできない。


 それに、さすがにもう疲れたし、これ以上は関わりたくないというのも本音だ。


「何にせよ、もう終わったんだ……」


 形はどうであれ、一先ずの終焉は見た。


 長いようで短かった一連の騒動。


 嫁の浮気から始まり、キチガイの襲来、身体が不自由になり、契約弁護士のセクハラ、心愛へのイビリ、間男親との交渉、奥さんとの共闘、インフルエンサー浮気女との対決……。


「そして、今日でいよいよ俺の方も完全決着か――」


 自分に言い聞かせるように呟いて、心愛と過ごした我が家のリビングを見渡せば、そこかしこに歯抜けとなった空間が目立つ。


 その場所には、これまでずっと心愛の持ち物が納まっていた。


 今ではぽっかりと空いたその空間が、二度と戻らない主を待ち続け、それでも懸命に口を開けているように思えて、俺はなんだか寂しい気持ちになってしまう。


「はぁ……余計な感傷だな」


 やれやれと首を振る。


 自分が出て行く側なら多少は気分も違ったのだろうか?


 しかし、身体が不自由となった俺からすれば、歩行困難者仕様かつ慣れ親しんだこの家はかなり住みやすい。


 特に、俺が杖で歩けるようになってからは、心愛と義両親が付けてくれた取り外し可能なスロープや、俺の背丈に合わせた手すり、危険防止のクッションカバーのありがたさが身に染みる。


 もしかして、あの頃から心愛と義両親は、俺がいつかは車椅子から立ち上がり、立って歩けるようになると信じていたのだろうか?


「いやいや、お医者の先生に聞いたって言ってただろうが……」


 頭を振る。


 ダメだ。今日はどうしても感傷的になってしまう。


 俺がこんな気持ちじゃ、正式な交際を待たせてしまっている“中山さん”にも申し訳がない。


 いや、心愛にだって申し訳ない。なんたって俺は、心愛との関係の終わりに感傷を抱きつつも、自分には既に次の相手がいることに対し、そこはかとない優越感さえ抱いているのだから……。


「チッ――なんなんだ俺はっ……」


 どこまでも人間の小さい自分に舌打ちが漏れる。


 それに加え、俺が中山さんとの出会いを通し、心愛が不安だった時の心情を多少なりとも理解できたことも、余計に自己嫌悪を覚える要因だった。


 というのも、俺だって自分が弱っていたり困っていたところを優しくされて、コロッと中山さんに夢中になってしまった口なのだから……。


 もちろん、それが浮気をして良い理由にはならないし、心愛の浮気については今でも許せない。


 でも、悲劇のヒーロー気取りや行き過ぎた被害者マインドはさすがに無くなった。


 心愛に制裁を加えることばかりを考えて来た時よりは、ちょっとは学習できたんだろうか?


 できれば今回で学んだことを、中山さんとの関係を続けて行く上で活かせればと思う。


 そうして、手持ち無沙汰も手伝って、一人で反省会もどきをしていると、今日で最後の肩書となる“俺の嫁”がやって来た。


「セイ君、来たよ……?」


 見るからに元気のない心愛は、それでも懸命に微笑んでいるようだった。


 そんな表情をされると、堪らなくなる。


 だから俺は、軽口を言ったんだ。


「お、今日は特にバッチリメイクじゃないか。もしかして、この後でデートとか?」


 重たくならないように、努めて明るい声で言う。


 実際、今日の心愛は入念さが伺えるメイクで元の造形の良さが際立ち、殊更に綺麗だった。


「えへへ……デートじゃないよぅ……」


 心愛はどこか寂しそうに笑って否定した後、目元に光るものを浮かべて続ける。


「今日で……セイ君の奥さんは最後、だから……せめて、少しでも綺麗なアタシを……セイ君に、覚えていて、欲しくって……っ」


 やめてくれよ――と思う。


 こっちはただでさえ感傷的になっているんだから、そんないじらしいこと言われたら堪らない。


「そっか……うん、ありがとな……」


 鼻がツンとして、それだけ言うのが精いっぱいだ。


 こんな時に気の利いた台詞一つ返せない夫で、俺の方こそ申し訳なく思う。


「それじゃあ……これ、一緒に書くか……」


 そう言って取り出したのは緑の紙。


 浮気問題が発覚した当初は、これを叩き付けたくて仕方がなかったが、今はこんなにも出し辛い。


 俺は妙に重たい手を動かして、必要事項を記入して行く。


 一つ線を引く度に、これまでの夫婦生活の記憶が脳裏を掠める。


 毎年手料理とケーキで祝ってくれた俺の誕生日のこと、父の日と母の日には自分の親だけじゃなく俺のクソ親へもプレゼントを送っていたこと、俺の日常的なつまらない思い付きにも嫌な顔せずに付き合ってくれたこと……。


 こんな瞬間だからこそ思い出す心愛のしてくれたこと。


 浮気をして俺を裏切ったことが事実ならば、これらの記憶だって紛れもない事実だ。


「書けた……それじゃ、心愛も……」


 そう言って、ペンを手渡す。


「は、ぃ……」


 心愛が消え入りそうな声で返事をし、俺以上に震えている指先でペンを取る。


 そして、紙の上を滑るペンは見るからに震えていて、引かれる線はミミズがのたくるように弱々しい。


 しかし、やがては、それにすら終わりが来て――。


「書け、た……っ」


 涙に揺らぐ声で、心愛が告げた。


 ああ、終わったんだ――と気が抜けた瞬間、俺は訳も分からず泣いてしまった。


 失敗した自分が不甲斐なく、裏切った心愛が許せなくって、これで終わってしまうことが悲しくて……。


 心愛も俺の背中に覆い被さるようにして、いつかのように「ごぇんねっ、ごぇんねぇっ……!」そう言って泣き続けた。


 これが、俺と心愛の夫婦としての最後の触れ合いと、最後の思い出だ。


 その後、心愛は化粧を直し、俺はわざわざスーツに着替え、二人で市役所へと離婚届を出しに行った。


「っ……お世話になりました……ごめんなさぃ……あぃがとぉっ……!」


 最後に、心愛はクシャクシャな顔で懸命に微笑みながら頭を下げた。


 これで、終わり。俺と心愛の夫婦関係が終わったんだ。


 「じゃあな……」


 遠ざかる心愛の背中に、俺は小さく呟いた。






あとがき

あと三、四話で終わらせたく思います。

引き続きお読み頂けましたら幸甚です。

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