第十四話『応報』




 DVにならない程度のイビリ……それは繊細な舵取りが要求されるものだった。


 DVの定義としては、“配偶者や恋人など親密な関係にある、又はあった者から振るわれる暴力”とされていて、その暴力には、身体的暴力、精神的暴力、性的暴力などが該当するようだ。


 中でも、この“精神的暴力”というヤツが厄介で、証拠が曖昧であっても訴えたもん勝ちみたいな場合もあるらしい。


「いやいや――精神的暴力って言うなら、浮気したヤツの方がよっぽどDVに該当するだろ」


 俺が受けた苦痛は、まさに精神的暴力以外の何ものでもない。


 しかし、調べてみたところ、そもそも不倫に対する慰謝料自体が精神的苦痛への賠償であるため、そこで更にDVで訴えるという話は見られなかった。


 おそらくは、根本的に非常識な考えなのだろう。


 結局、俺のようなただでさえ学の無い素人が、いくら無い知恵を絞ったところで碌な考えは浮かばない。


「だからこその弁護士だろうが……」


 しかし、その頼りになるべき弁護士は、使えないどころか問題を起こす始末……。


 弁護士選びは難しいとどこかのサイトでも読んだけど、俺の場合はもう別次元に到達していると思う。


 だからこそ、さっさと次の弁護士を探さねばとは思うが、とにかく腰が重い。精神的にも、肉体的にも……。


 しかも極めつけには、身体が不自由だからと言い訳しつつ、自分は動かずして自分の現状を変えてくれる第三者が、物語の如くに現れてくれることを心のどこかで期待しているのだから救いようがない。


 もはや、一種の現実逃避だ。


「はあぁ……」


 先行き真っ暗な未来に溜息しか出ない。


 それもこれも、全部浮気嫁、心愛の所為だ。


 するとそこに、全ての元凶たる心愛が現れた。


「あの、セイ君……お義兄さんから、電話だよ……?」


 遠慮がちに、受話器を持って渡して来る。


「チッ――さっさと寄越せっ……!」


 受話器をひったくり、追い払うように心愛をリビングから出て行かせる。


「もしもし、兄貴か?」


『おう、久しぶりだな清司郎。オヤジ達から聞いたぞ。なんか大変らしいな』


 その他人事のような口調に若干イラっとし、俺の気持ちなんて誰も分かってくれねぇんだと不貞腐れた気持ちになって来る。


「ああ、そうだよっ。嫁に浮気されて、病気でぶっ倒れて、今は俺の担当弁護士が問題起こしてて、メチャクチャで訳分かんねぇ状況だよっ。兄貴達が実家に居る所為で、俺は帰れねぇしなっ……!」


 もう完全な八つ当たりだ。


『おいおい、俺とお前のどっちが実家継ぐかって話の時に、お前が都会の大学行きたいからって実家を出たんだろう?だから、俺は大学行かずに家業を継いだんじゃねぇか』


 そうだった……最近は忘れてたけど、兄貴に実家を押し付けたことに負い目を感じていたから、俺は余計に実家に寄り付かなかったんだ。


 確か、俺が実家に関わったのは、心愛を見せびらかしに行った時と、自分の結婚式の時だけ……。


 でも、今時どこの家もそんなもんだろう?


『まぁ、寄り付かなくなる気持ちは分かるけどな。俺らの実家なんて、床はギシギシうるせぇしトイレはボットンで臭ぇし……うちの嫁さんなんか毎秒文句言ってるわ』


 そう言って軽快に笑う兄貴が、なんだか妙に憎たらしい。


「チッ、兄貴のとこは良いよな、嫁さんも浮気してねぇし子供は三人も居るし」


『お前も子供作りゃ良いだろ、あんなに美人の嫁さんもらったんだから。女は子供ができれば良くも悪くも変わるぞ?』


「は――冗談だろ?アイツは浮気したんだ!俺を裏切ったんだ!」


『分かったから落ち着け、興奮するな。そして、俺やオヤジやお袋の顔を思い浮かべながら鏡を見ろ……皆、ブサイクだ』


 うるせぇよ。


『ブサイクな俺らが今の嫁さんを逃がしてみろ。再婚は絶望的、仮にできても前嫁の方がマシだったぁ~!なんてことになりかねん。特にお前の嫁さんは美人だから、それこそ他の男がほっとかねぇよ』


 兄貴は冗談みたいな軽い口調で続ける。


『そうなったら、後に残るのはなんだ? ブサイクから解放されてイケメンか金持ちかと再婚した元嫁さんと、身体が不自由になったバツイチのブサイクだ……』


 電話の向こうに、兄貴が首を振っている姿を見た気がする。


 俺は背筋が寒くなり、そんな暗い未来の想像を打ち消すように声を上げた。


「うっせ!助けてくれねぇー癖に!わざわざそんなことを言いに電話して来たのかよっ!」


 すると、兄貴が溜息交じりに言う。


『まぁ、俺も嫁や子供や家業があるし、独り立ちしたお前を助けちゃやれないが、見舞いってことで俺の独身時代の貯金をお前の昔の口座に振り込んどいたから、何かの足しにしろ』


 高校時代のバイトの貯金だから少ねぇけどな、と兄貴。


『いいか、清司郎。自分の先のことをもっと冷静になって考え――』


 俺は途中で受話器を叩きつけた。


 くそっ、兄貴と話すと、自分がガキっぽくなってダメだ。たぶん甘えが出るんだろうけど、それは認めたくない。


「せ、セイ君……電話、終わった……?」


 心愛が声を掛けて来て、俺はますます苛立った。


「お前、盗み聞きしてたのか?」


 ジロリと睨み付ける。


「ぇ……ち、ちがっ――セイ君の大きな声が聞こえてっ、今来たとこだよぉっ!」


「黙れ!俺がお前の所為でどんなに苦しいか分かるか!?ふざけんなっ!今でも悪夢を見る時があるんだっ!!」


 もはや怒りを吐き出したいがための難癖に近かったが、悪夢の件は本当だ。当初のように毎晩見ることは無くなったし、内容もAVや洋画の濡れ場とゴッチャになることもしばしばだが、たまに見ることがある。


「クソッ!お前にも悪夢をっ――!」


 そこで、俺は思い付いた。


「お前にも、俺がどんな気持ちなのかを、少しでも知ってもらいたい。良いよな?」


「ぁ、ぅの……せぃ、くん……?」


 じっと見詰めてやると、心愛はひどく怯えた様子を見せた。


 だが、当然コイツに気遣いなど無用。俺は容赦なく、心愛に指示を出すのだった。


 そして、心愛に準備をさせ、俺の思い付いた“罰”を与えること数十分――。


 「ぅっ……っ、ぜぇ……ぐん……っ――」


 我が家のリビングでは、浮気嫁の心愛が床にへたり込んで嗚咽していた。


 そんな心愛の目元にはヘッドマウントディスプレイ、耳元にはヘッドホンが装着され、心愛自身による浮気の証拠動画と、俺と心愛の結婚式の映像が交互に流されている。


『ぁ、ぁんっ……セイ君なんかより、ずっときもちぃ……ハル君、愛してる……』


『へへぇ~、今すごく幸せでぇ~す!セイ君、ず~っと仲良くしようねぇ~!』


 ヘッドホンから漏れる音声が、心愛の見ている場面を俺にも伝えて来る。


 おそらく、前者は間男とのハメ撮りで、後者は俺との結婚式の二次会だろうか?


 俺は車椅子から心愛を見下ろし口を開く。


「俺はさ、今でもそんな悪夢を見るんだわ……」


 声は届いていないだろうが、呟かずにはいられない。


 退院して以降、投げやりな気持ちかつなし崩し的に浮気嫁との同居が始まり、現実的に助かっている部分は確かにあるのだが、それでも俺の怒りや憎しみは、何ら解消はされていないのだ。


 心愛が僅かにでも安堵したり、控えめにでも笑ったりすると、それこそ激しい憎悪が噴き上がる。


 そして、そんな憎悪の対象が、今俺の足元で嗚咽している。


「ぅ……ぶ……ぅぇっ……ごぇ……な、ざっ……っ」


 こうして、心愛が泣いたり傷付いたりすると、俺の胸の内は微かにだが慰められるような気がするのだ。


 もちろん、錯覚かもしれない。


 だが、何にせよ、我ながら歪んでしまったと思う。


 あの自慢だった最愛の心愛を泣かせ、錯覚かもしれないとはいえホッとしているのだから……。


「ごぇっ……ぁ、ざっ……っ、ごぇ……っ」


 目の前では、心愛が泣いている。



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