第十七話『劣等』




 “冷静ですね――”。


 弁護士先生の言葉が、頭の中に反響している。


 俺が冷静?


 目の前の光景を見て、失笑が漏れた。


「ごぇっ……ぁ、ざっ……っ、ごぇ……っ」


 日課である悪夢の再現作業。


 心愛は目元にヘッドマウントディスプレイ、耳元にはヘッドホンのいつものスタイルで、車椅子に座る俺の足元にへたり込み、浮気動画と結婚式の映像を交互に視聴し泣きべそを掻いている。


「ぅ……うぇ……っ、ごぇっ……ごぇんっ……ざぃ……っ」


 俺には何の涙なのかは不明だが、とりあえず泣いてくれるのなら良かった。


 正直、最初にこれを心愛に見せる際には、もし心愛が何の反応も示さなかったらどうしようかと不安に思ったものだ。


 だが、心愛はどんな心境からか、いつも涙しながら謝罪する。


 一応は、罰になっているということだろうか?


 まぁ、自分のやったこととはいえ――いや、自分のやったことだからこそ、見たくないものもあるのだろうと、俺はそう結論付けている。


「っ……ごぇっ……ごぇ、ざぃっ……っ」


 気が付くと、心愛は泣き過ぎて過呼吸気味になっていた。


 俺は一瞬考えてから、痺れの無い方の手で心愛の耳元のヘッドホンを払い落とす。



『ゴネてほしいの?ゴネるわけないよ。アタシが本当に好きなのは今も昔もハル君だから、セイ君と離れられて清々する』



 外れたヘッドホンから漏れる大音量の心愛の悪態。


「ぅあ゛……ぢがっ……ごぇなざっ……っ!」


 心愛は大慌てでヘッドホンに覆いかぶさるが、そんなことをしたって音は丸聞こえだ。


「おい、今日の分は終わりだ。そのヘッドマウントとヘッドホンを片付けて、顔でも洗って来い」


 一切の感情を乗せず、俺は淡々と命じる。


 すると、心愛は「ぁ、い……っ」と鼻声で返事をし、フラフラと片付け始めた。


 イビリを始めた当初は、どうせ直ぐに逃げるか逆ギレするに決まっていると踏んでいたが、心愛のヤツは予想外に従順だ。


 そんな心愛の細い背中に、なんだか胸の奥が重たくなった。


 頭の中には様々な感情が渦巻いて、自分自身の感情が信用できなくなってくる。


 おそらくは、身体が不自由になってからの俺の通院やリハビリ、日常生活の様々な世話をされ、それらの費用まで心愛と義両親持ちという事実が、俺の中での負い目となって、余計に微妙な気持ちにさせているのだと思う。


 そしてまさに、そんなことを考えていると――。


 ――ピリリリ、ピリリリ……。


 寝室の方から、俺の仕事用のスマホが着信を知らせて来た。


「マジか、心っ――いや、自分で行くか……」


 俺は自然と心愛を頼ろうとし、さすがに罰が悪くなる。


 そして、日頃から自分で動いていないこともあり、家の中での車椅子操作は困難だ。あっちに掠りこっちに擦り、それでもなんとか寝室までやって来た。


 俺が息を切らしながらもやっとの思いでスマホを手にし、耳に当てた瞬間。


「は、はいっ、もしも――」


 ――ツー、ツー、ツー……。


 まるで嘲笑うかのように電話が切れた。


「くそ……っ」


 情けなくて、これしきのことで涙が出そうだ。


 しかも、こちらから掛け直しても繋がらない。


「はぁ……」


 自分自身に溜息が出る。電話を取ることさえ満足にできないのだ。


「クソっ……これも全部心愛の所為だっ……!」


 分かっている。これは八つ当たりだ。俺の疾患の原因は脳静脈の奇形で結論が出た。もちろん、ストレスや不摂生も無関係ではないが、直接的な原因じゃない。


 でも、それでも、自由にならない身体のことを、誰かに当たりたくなる。責任を求めたくなる。そうでもしないと、やっていられないから。


 俺は救いを求めるように、あるいは怒りの矛先を探すように、寝室を見回した。


 すると、それが目に入った。


「これは……」


 そして、俺は“それ”へと手を伸ばしてしまった――。


 寝室からリビングへ。


 俺は再び苦労して車椅子を動かし、ここに戻って来た。


「ぁ……セイ君、どこ行ってた、の……?」


 先程まで泣かされていたと言うのに、それでもこちらを気遣う心愛に対し、俺は劣等感にも似た気持ちを抱く。


 だからこそ、俺は決定的な制裁を加えることにした。


 もしDVで訴えられたら、確実に負けるだろう。


 だが、それでも良い。訴えるなら訴えるで、やっぱりなと納得できる。


 だから、頼むから、浮気嫁の醜い本性を見せてほしい。これ以上、俺への気遣いで、俺の小ささや惨めさを暴かないでほしい。


 俺は懇願にも似た気持ちで心愛に命じた。


「おい、ちょっとそこの掃除機を持って来い」


「ぁ、ぅん……セイ、君……も、持って、来たよ……?」


 自分に関わることだと分かっているらしく、心愛が目に見えて怯えている。


 俺は構わず、心愛の持ち物から抜き取った“それ”を取り出した。


「もう、コイツはいらないはずだよな?」


 そう言って心愛に見せたのは、小さなペンダントトップのついたネックレス。 


「せっ、せひくっ――セイくんっ!そ、それっ……どうっ、どうするのっ……!?」


 心愛は見る見る顔を青くして、震える手をネックレスへと伸ばして来る。


 俺はその手を払い落とし、硬い声で言い放つ。


「ぶっ壊して、処分する。俺との関係が嘘っぱちだったんだから、当然だよな?」


 そう宣言して、俺は両手でネックレスを持ち、それを両側からミチミチと引っ張り始めた。


「やっ、やめでやめでぇーっ!ぞれだげは許じでっ!ぜぇぐっ……ゼェぐんがら!もらっだのーっ!!」


 このネックレスは、俺達の短い婚約期間中に俺がプレゼントした指輪代わりの代物だ。


 宝石も砂粒みたいに小さくて決して高いものではないが、心愛はとても気に入っているようだった。それこそ、結婚してからもよく付けていたし、付けない時もケースの中に入れて部屋に飾って大切にしていた。


 この家から出て行く際にも持って行ったくらいだし、また戻って来た今も肌身離さず持って来ていたらしい。


「黙れ!お前が裏切ったからだろうがぁあっ!!」


 俺は情けないイジケ虫のような台詞を叫び、心愛のネックレスをバラバラに引き千切ってやった。


「うあっ、ぁああっ……ぅああぁっ……っ!」


 心愛は大泣きしながらも床に張り付き、散らばった残骸を必死にかき集めようとする。


 俺はそんな心愛もお構いなしに、心愛自身に用意させた掃除機を使って残骸を掃除して行く。


「やぁあっ!やえでぇっ!やぇでよぉーっ!!」


 子供のように泣きじゃくる心愛は、残骸を吸われまいと床に覆いかぶさる。


 俺は何度か心愛に掃除機をぶつけてみてから、これ以上は無駄だと判断して掃除機を放り出した。


「っひ、ぅ……ぐ、っうぅ……っぅああぁぁ……っ」


 心愛は泣きながらも、必死に掃除機のゴミパックからもネックレスの破片を集めている。


「っ……ぅ、ぐ……ごぇ、ぁ、ざぃ……っ」


 そして、俺の足元から聞こえて来たのは、弱々しく消え入りそうな謝罪の言葉。


 それを聞いた瞬間に、俺の胸中は一気に重たくなった。


 俺は間違っていない。俺の受けた屈辱やショックは、こんなもんじゃない。だいたい、コイツが浮気しやがったんだ――!


 だが、今更何を思っても俺自身が言い訳にしか思えず、そして、俺は浮気嫁や間男とは違うベクトルでクソ野郎になってしまった気がしてならない。


 自分は変わってしまったのか、元からあったものが出て来ただけなのか……。


 もし後者だとするならば、それは全くもって救いがない。


 というか、そんなんだから俺の周りには、人が寄り付かないんじゃないだろうかと嫌な想像まで浮かび上がる。


『相変わらず自己中だな』


『お前って人への気遣いとか無いよな』


 違うっ――!


 頭に浮かんだ声を振り払う。


「心愛……お前、もう出て行けよ……」


 俺は自責の念から逃れるように、心愛に向かってそう口にしていた。



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