第十話『退院』
結局、俺が投げやりになったことで、なし崩し的に浮気嫁の世話になることが決まってしまった。
いや、これでも何か手がないかと、民間の支援サービスを調べたり、友達を頼れないかとメモリーを漁ったりもしたのだ。
だが、結果的には、俺は自分の金の無さと友達の少なさを再確認しただけで終わった。
詰まるところ、現状を打破できないのは俺自身の甲斐性の無さが一番の原因なのだ。
しかも、心のどこかには、浮気嫁の世話さえ我慢すれば、金も手間も掛からないという卑しい思いがあるのも問題だった。
「あ、あのっ……セイ君っ……車椅子、押すねっ……?」
そんな俺も今日が退院日であり、心愛が後ろに回って車椅子を押して来る。
正直、入院中に治療とリハビリを経験し、先生が主張した“誰かしらの介助があった方が良い”というのは、よくよくと実感できてしまった。
これまで健常者として生きて来た人間が、いきなり不自由な身体で生活することの困難さは想像を絶し、確かに今の俺では、自分どころか他人を巻き込むような事故も起こしかねない。
だが、重ねて思うことだけど、その介助をする人間が、自分を騙して裏切った浮気嫁だというのだから救いがない。
「チッ……」
思わず舌打ちが漏れれば、背後の心愛がビクリと反応したのが伝わって来た。
「俺は――」
一応、俺から宣言しておこうと、背後の心愛に声を掛ける。
すると、凄まじい勢いで喰い付いて来た。
「へふぇっ!?な、なに!?なにセイ君っ!?」
必死に車椅子の前に回り込み、地に膝をついてこちらを見上げてくる心愛。
ああ、そういえば、俺からコイツに声を掛けるのは、ぶっ倒れる前にブチギレた時以来だったな……。
「俺は、お前のことを一ミリも信用できない。今だって、また間男にでも命令されて、慰謝料の踏み倒しと保険金目的で俺を殺そうとしてるんじゃないかと疑っている」
自分でもとんでもなくガキっぽい暴論だとは思うが、心愛はそれだけ疑われて当然だろう。
だからこそ、釘を刺しておきたかった。お前らの思い通りになると思うなよ、と。
しかし、面と向かって俺の言葉を受けた心愛は、そのやつれた顔をふにゃりと歪めた。
「ち、ちがっ!違うよ!違うんです!そんなこと考えてない!もうハルく――
心愛の中身のない弁明は、最後まで言葉にならなかった。俺が途中で、スマホ内にある動画を音量マックスで再生したからだ。
『なっ、なんでこんなことするのよ!なに一つハル君に勝てないからって!暴力とかサイテー!もうセイ君なんかとは離婚だから!今回のことだって!むしろアタシとハル君の関係がバレて良かったし!清々する!』
心愛のことだから、てっきり俺がぶっ倒れたのを良いことに証拠類を処分していると思ったが、予想外に俺のスマホ内には証拠の動画や音声がそのまま残っていた。
まぁ、連絡すら寄越さない俺の担当弁護士や間男の奥さんも持っている代物だから、今更処分など無駄だと悟っただけかもしれないが……。
「っ……ごめっ……なさっ……っ、ごぇっ……なさぃっ……!」
また同じ言葉をリピートしつつ、ボロボロと泣き始める心愛。
俺はそれを見て、本当にやるせなく、腹立たしい気持ちになる。
どうして俺が、こんな汚れた人間の手を借りなければならないんだと、ぶつけ所のない恨みが湧いて来る。
そして、俺が無視して車椅子を動かそうとすると、心愛は涙も拭わず鼻をグシュグシュ言わせながら、また車椅子を押し始めた。
それに対し、俺は不思議なくらいに何の感慨もない。
『ハル君の方が全然かっこいいし!オシャレだし!デートのときだっていつも奢ってくれるし!えっちも上手でアタシのこと大切にしてくれて愛してくれる!』
今も俺のスマホからは、心愛による俺への蔑みが大音量で再生される。
車椅子越しに、悲しみなのか羞恥なのか、それとも俺に対する怒りなのか、心愛による嗚咽と震えが聞こえ伝わって来た。
そんな俺達のことを、病院の駐車場ですれ違う人々が振り返って見て来る。
まぁ、当然だろう。生々しい動画を再生する車椅子の男と、その車椅子を押して泣き震える女――客観的には、どう見えているのだろう?
「ひっ……ぅ、ごぇっ……ざっ……ゅ、る……ひっ……っ」
心愛が何かを言っている。
何を言っているかは分からないが、例え何を言っていたとしても、今の俺には何も響かない。
だが、それとは別に、長年にわたって俺を騙し、裏切り、更には離婚さえも拒んで俺を苦しめる存在が、衆目の中で恥を掻き涙する様は、ほんの少しだけ俺の気持ちを軽くさせたように思えた。
“心愛が苦しめば、俺が癒される――”
もちろん、それは救いのない現状の中で働いた自己防衛機能が、あえて勘違いさせた錯覚の図式なのかもしれないが……。
とりあえず、俺は自宅に帰るまでの間は、動画を再生させておくことに決めた。
そして、よく泣く心愛の危なっかしい運転の下、俺は久方ぶりとなる愛も家族も将来も嘘っぱちだったハリボテの我が家へと帰って来た。
車椅子を押され、我が家の玄関口へと上がる。
「ぉ、おがえり、なざぃ……っ」
すると、涙と鼻水に濡れた悲惨な顔で、心愛が控えめにはにかんだ。
俺はそれを目の当たりにして、腹の底がチクチクとした。一瞬、変わり果てた元嫁への憐憫かとも思ったが、単なる苛立ちだということが直ぐに分かった。
どうやら俺は、心愛が笑うと腹が立つらしい。
さすがに、少しだけショックだった。以前の自分は、こんな人間じゃなかったはずだ。素直に人の優しさに感動して喜べる方だったと思う。
だが、変わってしまった。全てのことを斜めに見て、物事の裏を取ろうとし、基本的には疑って掛かる嫌味な人間になってしまった。
身体だけではなく、中身まで不自由になってしまったように感じる。
「家に入ったら話がある。お前に聞きたいことが山程あるし、お前が近くに居て俺がどんな気持ちなのかも知ってもらう」
弁護士事務所の前で決別した際には、心愛の方が立場も弁えずに言いたい放題言ったのだから、今度は俺の番だ。
思い切り悪意をもって、精神に傷を負わせるのを目標に責め立ててやろう。
「ぅぐ……せ、せぃ、ぐん……っ」
心愛が俺を見ながら震えている。いい気味だ。
「オラ、さっさと家に入るぞ。ああ、一応言っとくけど、逃げたきゃ逃げてもいいぞ? 最初からお前には何の期待もしていないからな」
最後は鼻で嗤ってやった。
どうせ不誠実の塊りみたいなヤツなんだから、遅かれ早かれどこかでとんずらするに決まっている。
だったら、その間に少しでも、やったことの報いを受けさせたって罰は当たらないだろう。
ここまでずっと俺が一方的に騙され、裏切られ、貶され、離婚という最低限の後始末さえごねられて、永遠と我慢を強いられてきたのだから。
「クソがっ……!」
俺が憎悪を込めて睨み付けると、心愛は絶望的な表情に顔を歪めた。
そして――。
「ひ、ぅ……せぃぐっ……ぅぐぶっ……!!」
極度の緊張かストレスか、それとも胃でもやられたか、心愛は家の前でゲロを吐いた。
それを見て、ざまぁないとほくそ笑む自分が、心底気持ち悪かった。
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