第八話『病床』




 次に目が覚めた時、俺は病院のベッドの上に居た。


 頭がぼうっとして身体に力が入らず、長いこと横になっていたためか、身体が痺れて動かない。


 だから、辛うじて目線だけを動かして周りを見渡せば、点滴や脈を計るような機材など、ドラマや映画で見るような物が近くにあった。


「ど、して……っ」


 酷く掠れてはいたが、声は出せる。


 というか、俺はどうして病院にいるんだ?


 どう考えても分からないため、とりあえずは自分が覚えている最後の記憶を思い起こしてみる。


 すると、脳裏に映し出される光景は……ゴミだらけのリビング、浮気嫁の心愛、浮気の証拠、怒鳴り声、強烈な頭痛――あぁ、少しだけ思い出して来た。


 察するに、連日の睡眠不足と精神疲労、さらにはそんな状態で力の限りに大絶叫し、手足や髪を振り乱して暴れたものだから、俺はぶっ倒れてしまったのだろう。


「なさ、け、ね……」


 自分への悪態が漏れる。


 しかも、当時の記憶と現状から察するに、俺を病院へと連れて来た、もしくは手配をしたのは心愛なんじゃないだろうか?


 そう考えると、非常に複雑な心境だ。


 相手が誰であれ、助けてもらったことに対しては感謝すべきなんだろうけど、そもそもの俺の体調不良やブチギレの原因は、全て心愛にあるとも言える。


 今だって、その“原因”のことを僅かにでも考えると、途端に黒々とした憎悪と絶望が腹の底に渦巻くのだ。


 怒りも恨みも悲しみも、俺の中では何一つ解決してやしない。


 ――コンコン。


 と、俺が悶々としているところに、病室のドアをノックする音が響き、次にはそのドアがゆっくりと横にスライドして開いて行った。


 看護師さんだろうか?


「セイ君……?」


 違った。看護師さんではなかった。そして、その囁き声に、ギクリとした。俺のことを“セイ君”なんて呼ぶヤツは、この世で一人しかいない。


「ぇ――セイ君っ!!?」


 視線が合った瞬間に、まさに全ての元凶にして渦中の浮気嫁、心愛がこちらに向かって駆け寄って来た。


「来、るっ、なっ……!」


 俺の口からは掠れ切ったしゃがれ声が出た。怒鳴ったつもりだったが、まるで屁のような声だ。


 だが、それでも心愛の前進を止めるには十分な効果があったらしく、ヤツは俺が横たわるベッドの一歩手前で立ち止まった。


「っ……ご、ごめっ、なさっ……先生っ、呼んでっ……っる、ねっ……っ」


 一応、病院だから泣くのを我慢しているのか、心愛は言葉の端々で唇を噛み、呼吸を止めて泣くのを我慢しているようだった。


 心愛による婚前からの浮気が発覚して以降、心愛が泣く度に心底不思議に思うのだが、あれはいったい何の涙なんだろう?


 俺は得体の知れない生き物への警戒心をもって心愛の背中を見送った。


 しばらくした後、俺の病室には、お医者の先生と看護師さん、更には心愛と義両親と、遠方の田舎に住む俺の両親までもが現れた。


「オヤ、ジ……? お袋……?」


 なんでここに?という意味を込めて呟くと、容赦のないツッコミが飛んできた。


「まったくっ……あんたはいい歳して自己管理もできないのかっ……このバカ息子っ……!」


「なんだオメェは!嫁の浮気ぐらいで情けねぇ!オメェも女の一人や二人居ねぇのか!この甲斐性なしが!」


 もう別次元のところでキレる血気盛んな俺の両親。しかし、よく見れば二人共、目元が潤んでまぶたが赤く腫れている。


 どうやら、かなり心配を掛けてしまったようだ。


「ぁ、あのっ……全部、アタシが、悪くてっ……セイ君を、責めないで、ください……ご、ごめんなさいっ……!」


「お父さんもお母さんも落ち着いてください、息子さんは病人ですよ」


「お静かにして頂けないのであれば、ご両親と言えども退出して頂きますが?」


 心愛は置いておくとして、看護師さんとお医者の先生はさすがの冷静さだ。


 そして、先生の一言で冷静になった両親は仏頂面で口を閉ざした。


 というか、オヤジもお袋も今の口振りから察するに、心愛の浮気のことを知ってしまったようだ。おそらくは、心愛や義両親達が話したんだろうけど、俺はその場に居なかったわけだし、どのように伝えたのかが気になるところ――。


 俺は内心で、“どうせ自分らに都合の良いように伝えてるんだろう?”と不貞腐れた気持ちで心愛と義両親を一睨みする。


 すると、心愛は肩をすくめて縮こまり、義両親は気まずそうに俯いた。


 そして、そんな攻防など知らぬ俺の両親は、俺の心情などお構いなしにとんでもないことを言い出しやがった。


「とにかく、あんたの病気が治るまでは心愛ちゃんに面倒見てもらいなさい!」


「そうだ!俺らは面倒見れねぇし!俺ん家に帰って来ても部屋がねぇ!嫁さんも面倒見させてくれって言ってんだ!そうしてもらえ!」


 マジかよコイツら……と俺は両親に向かって目を見開く。


「ざ、けん、なっ……!結婚、前からっ……浮気……ぞ? 俺と、結婚自体っ……詐欺っ、だっ……!」


 やはり力が入らず、掠れた声が出た。


 看護師さんからは無理をしないようにと俺の口元に吸い飲み器を差し出し、先生はあまり興奮させないようにとオヤジを窘める。


 しかし、オヤジは俺の物言いが気に食わなかったようで怒鳴り声で応じた。


「んなこたぁとっくに聞いてんだよ!だがな、誰かがお前の面倒見なきゃなんねぇだろうが!だいたい、お前は日頃から親に顔も見せねぇし電話もよこさねぇ!今回のことだって、俺らはお前から何も聞いてねぇぞ!」


「……話は全部聞いてるよ。証拠も見た。その上で話し合って、母さん達が出した結論だよ。現実的に考えて、治療の間のあんたの世話をする人は必要だろう?離婚ならいつでもできるんだから……っ」


 最後に、お袋がハンカチで目元を押える。


 なんでだよ、なんで俺が聞き分けが悪いみたいになってるんだよ。


 そして更には、全ての元凶たる浮気嫁の心愛が、拙い動作ではあったが病室の床に土下座をし始めたのだ。


「ごめんなさいっ……本当にごめんなさいっ……全部、アタシがバカで、卑怯で、サイアクだったから……っ」


 心愛は腹の底から絞り出すような声で続ける。


「で、でもっ……セイ君の身体が、治るまでの間だけでもっ……お世話を、させてくださいっ……!」


 心愛がより一層に頭を下げて、ゴツンと床が鳴った。


「我々からも、どうかお願いします!清司郎君から言われて証拠も見ました!本当に申し訳ない!」


「娘は人の道から外れることをしました!私達が育て方を間違った所為です!本当にすみません!」


 心愛の隣では、義両親までもが土下座をし始めた。


「ほれ!先方さんも誠意を見せてこう言って下さってるんだ!」


「ああ、そんなっ、土下座なんてよしてくださいっ――ホラっ、あんたも不貞腐れてないで返事しなっ……!」


 実親共に至っては、俺の方を窘めてきやがる。


 なんだよ、この茶番は……。


 弱り切って自由の利かない自分の身体と、誰も味方の居ないこの状況に、俺は一気に投げやりな気持ちになった。


 すると、場が静かになるのを待っていたかのようにお医者の先生が言った。


「一通りお話は終わりましたでしょうか? では、患者さんに今後の話をするので出ていて頂けますか?」


 俺の両親や心愛、義両親の全員を退出させ、先生は俺に向き直った。


 そして、先生が口を開く。



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