第七話『絶叫』
DVなどの入れ知恵について、心愛からは何も聞き出せなかった。
というか、泣きながら首を振るのみで全く役に立たない。
俺は玄関にへたり込む心愛を置き去りに、ゴミだらけのリビングへと戻る。
「……義両親が弁護士でも付けたのか?」
頭を下げるくらいには自分達の立場を理解しているようで、心愛の所業を許せと言うくらいには常識がない義両親。
場合によっては、心愛本人よりも厄介な存在かもしれない。
「というか、俺も自分の親に説明しないとなぁ」
日頃から碌に連絡をしていないために気が重い。
しかも、その内容が嫁の浮気と離婚についてだから余計にだ。親だって、そんな話は聞きたくはないだろう。
だからこそ、元凶は許せないのだ。
「お前は――さっさと離婚に応じろよっ!!」
恐る恐るリビングに入って来た心愛の気配を感じ取り、俺は背中越しに怒鳴り声を上げた。
「ひぐぅっ……!!」
すると、心愛はまたへたり込んだらしく、ドスンという音が床に響いた。
「チッ――!」
憎悪を込めた舌打ちを一つ。
そうでもしないと、直ぐにでもぶん殴ってしまいそうだ。
俺はリビングのソファーにドカリと座り込み、ジャーキーやスルメの残りカスと、度数の高い蒸留酒で腹を満たしてから、最後は風呂にも入らず毛布に包まった。
瞼の裏の暗闇を見詰めていると、様々な負の感情が浮かんでくる。
神経が高ぶり眠気とは程遠いところに居ると感じたが、久しぶりの“敵”との対峙にそれを上回る疲れがあったのだろう。俺はいつの間にか、眠りへと落ちて行った。
暗闇の中では、男女が絡み合っている。
『ハル君、愛してる……もっともっと、たくさんシて……?』
俺の嫁であるはずの心愛が、俺以外の男――浮気相手の
『はっ……ぁん……ハル君、イイ……っ』
汗と精液の飛沫を上げて、パチンパチンという肉打つ音と、甘い嬌声がこだまする。
『んふぅ……セイ君とは比べ物にならない……ハル君のえっち、スゴイよぉ……』
息も絶え絶えの二人は丸裸で抱き合い、ねちっこい口付けを交わしている。
『セイ君の赤ちゃんなんて絶対生まない、アタシがほしいのはハル君の赤ちゃんだけ』
二人は俺を嘲笑いながら、また身体を重ねて行く。
俺はその光景をガラス越しに見詰め、ただただ歯を食い縛り涙して、仄暗い鬱屈とした興奮に身体を反応させている。
声すら出せない俺は、暗闇の中で“もうやめてくれ!”と念じ続けた――。
「ッ――ぁあっ!!」
自分の叫び声によって、俺は飛び起きた。
全身にはじっとりと脂汗が浮き、胸がムカついて気持ちが悪い。
ここ最近はようやく見ることが減って来た浮気嫁と間男の悪夢。それが見事に再発してしまったようだ。
「はぁ、はぁ……っ」
俯いて息を整えようとすると、悪夢の光景がまたフラッシュバックして、腹の底から嫌悪感が込み上げた。
「ぅぶっ……ごぇっ……ゲホォっ……!!」
俺は咄嗟に近くのゴミ箱へと嘔吐する。
喉を焼く苦酸っぱい吐瀉物に歯が浮いて、すえた臭いが鼻を衝く。
すると、俺の異変に気付いたらしい全ての元凶が、リビングへと入って来た。
「ひっ――せ、セイ君!?大丈夫っ!!?」
血相を欠いて駆け寄ってくる心愛の姿に、俺は怖気を覚えた。
「ぢがっ……近寄んなぁあっ!!!」
胃液に焼かれた喉を千切れんばかりに酷使して、力の限りに怒声を上げる。
すると、なぜか心愛は図々しくも、傷付いたような表情で固まったではないか。
「ゲホッ……誰のっ、所為で、こんなっ……被害者面っ、すんなっ……っ」
俺が牽制のつもりで睨み付けていると、なんと心愛はまた泣きだしやがったのだ。
「ひっぅ……ぇんなさぃ……ごぇん、なざぃっ……アダシがっ……ぜぇぐんをっ、傷付けぢゃっだ、がらっ……っ!」
赤く腫れ上がった瞼、目の下には隈が浮き、痩せこけた頬と、目尻や頬にはドス黒く晴れ上がった痣……そんな顔を、また涙で濡らしている。
その姿だけを見るならば、まさに悲惨の一言。しかし、コイツの場合は完全に自業自得。いや、むしろ罰が足りていない。
だからこそ、心愛の発言は余計に俺の神経を逆撫でた。
「ぁあ?」
コイツは、今回のことを「傷付けた」とか、そんな軽い問題だと思ってやがるのか?
俺はキレた。
「っ――悪いと思ってんならなぁ!さっさと離婚届を書けや!俺にとっちゃお前が視界に入ること自体が最悪なんだからよ!!」
まるでチンピラのようだが、偽らざる本心だ。
俺は義両親へもやったように、心愛に対してスマホの画面を向けながら、コイツ自身の証言動画を再生させた。
『ゴネてほしいの?ゴネるわけないよ。アタシが本当に好きなのは今も昔もハル君だから、セイ君と離れられて清々する』
他にも聞かせたいところは多々あるが、俺はその部分をリピート再生しながら心愛を睨み付ける。
すると、心愛は顔を青くして首を振った。
「ち、ちがっ――違うのっ!あの時はっ、セイ君の暴力に驚いちゃってっ……勢い言っちゃっただけでっ……だからっ、あんなの本心じゃない!アタシがホントに愛してるのはセイ君なのっ……許してっ!許してくださいぃっ!!」
床に額を擦り付け、必死の土下座を始める心愛。
俺は失笑を漏らした。
「はぁ?つーか、お前ら結婚前からの浮気だろうが、何が本当に愛してるのは~だよ。なんだっけ?“アタシの本当の旦那様はハル君~”だっけか?俺とも仕方なく結婚したんだったよなぁ?」
証拠動画の中で、熱っぽくそう囁き合っている場面があった。
「ぅっ……ひ、ぅ……っ」
俺の指摘に、心愛がまた泣き始める。
「お前だって自分から、“離婚”だの“間男との関係がバレて良かった”だの“清々する”だの言ってただろうが……口だけじゃなくて、少しでも俺に悪いって思ってんなら、今直ぐにでも離婚を受け入れろよ……」
最後は声に力が入らなかった。無理もない。連日の不眠に不摂生、精神状態もボロボロで、そろそろ本格的に気力も体力も限界だ。
しかし、相手は浮気をする不誠実の塊りのような生き物。こちらの状態などお構いなしに、自分の都合と主張を通そうとする。
「やっ……りごんはっ、やぁ……っ、ぜぇぐんのっ……ぞばに、居だぃっ……!!」
心愛は土下座しながらもブンブンと首を振った。
ここまで来ると、怒りや鬱陶しさを通り越し、少し怖いとさえ感じてくる。
しかし、当然引く訳には行かず、徹底的に分からせる必要がある。
俺は残り少ない気力と体力を振り絞り、精一杯の怒声を上げた。
「ッ――ざっけんなっ!お前が散々俺を騙して裏切って貶して!最後には離婚して清々するとまで言ったんだろうが!!」
正直なところ、半分以上はこけおどしだ。
怒声も身振り手振りも険しい表情も、残り少ない力を振り絞っているに過ぎず、その実、さっきから耳鳴りが酷く、手足の先からは冷たい痺れが這い上がって来ている。
「これを見ろ!声に出して読め!お前がやって来た裏切りだ!自分がやられてどう思うかを少しでも考えろっ……っ!」
何とか決着をつけたい俺は、死力を尽くして浮気動画をリビングのテレビに映し出し、スマホでは動画を再生させ、浮気画像やラインのプリントアウトを心愛に押し付けた。
「っ……なんで俺をっ、俺の人生をっ、巻き込むんだよっ……っ!」
俺は初めて心愛の前で涙した。弱音を吐いた。
すると、次の瞬間に――。
「ぃぎっ――!!?」
突如、脳ミソを鞭で叩かれたような衝撃と激痛が走り、俺の口からは条件反射の悲鳴が漏れた。
「ぎっ……ぅうっ……!」
両手で抱えた頭の内側には、まるで熱湯を注がれたかのような灼熱を感じている。
次いで、視界がチカチカと明滅し、目に映る光景がグルンと回った。
「ぜっ、ぜぇぐんっ!!?」
最後に心愛の悲鳴を聞いて、俺はその場にぶっ倒れた――。
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