第六話『対峙』




 泣きじゃくる心愛をインターフォン越しに見ていた俺だったが、いつまでもそうしているわけにもいかない。


 とにかく、まずは担当弁護士に電話だろう。


 俺はスマホを取って電話を掛けた。


「チッ――なんで出ないんだよっ!」


 しかし、どれだけコール音を聞いても相手は出ず、肝心な時に役に立たない。


 俺は仕方なく、その弁護士を紹介した間男の奥さんの弁護士先生に電話を掛けて事情を説明した。


 すると――。


『まだ離婚や分与が成立していないのでしたら、家に入れないと言うのはマズイです。下手をするとDVと取られる可能性もあるので……録音などの準備をして、家の鍵を開けてください。それと、くれぐれも冷静な対応をお願いします。紹介した弁護士には、私の方からも言っておきますので――』


 どうやら、家には入れなければならないらしい。


「冷静にって……できるか?」


 ここに至ってまでこちらが我慢を強いられる理不尽さには怒りを覚えるが、法律が絡むとかえって被害者側が我慢を強いられるものなのかもしれない。


 俺は渋々だが、ボイスレコーダーやカメラなどを準備して、玄関ドアの鍵を開けた。


 もちろん、ドアを開けて招き入れるような真似はしない。開けるのは鍵だけだ。


 電球の切れた薄暗い我が家の玄関にて、俺はドアを睨んだまま沈黙する。


 張り詰めた空気の中、俺の心臓は痛いほどに打ち付けて、嫌な緊張感に胸焼けさえしてくるようだ。


「はぁ……ふぅー……」


 深呼吸を一つ。とにかく落ち着かなければならない。


 さっきまで聞こえていた心愛の嗚咽は止んでおり、おそらくはドアの鍵が開けられたことにも気が付いているはずだ。


 そして、ガチャリ……という玄関ドアの音が鳴り、ゆっくりと、じわじわと、外から差し込む光の幅が広がって行く。


「ぜぇ、ぐん……?」


 次には、ガラガラの枯れた声がドアの隙間から滑り込んで来て、久しぶりとなる心愛の姿が覗いた。


 インターフォンのカメラ越しには最後に決別した時と変わらぬ様子だと思ったが、そんなことはないようだ。


 久しぶりに見る心愛は、酷くやつれていた。


 頬はこけ、目の下の隈は化粧でも隠しきれておらず、目元と口元には青黒く膨れ上がった痣が浮いている。おそらくは、殴られたのだろう。


 そんな心愛のザマに、僅かな憐憫と強い怒りが噴出する。どうして、お前が被害者のようなのだと――。


「チッ……なにしに、来たんだよ……!」


 怒りなのか悲しみなのか、俺の声は震えた。自分の感情が制御できず、急に胸が苦しくなって下を向く。顔を、見られたくなかった。


「ぜぇ、ぐ――っ」


 するとどうしたことか、枯れた声で俺の名前を呟きながらフラフラと入って来た心愛が、途中でピタリと動きを止めた。


 俺が不審に思って僅かに顔を上げると、目元からポロポロと雫がこぼれた。


 ああ、最悪だ。このタイミングで、俺は何を泣いてるんだよ……。


 思考の方は冷静で、苛立ちさえ覚えているはずなのに、涙が止まらない。


 そして、そこで初めて、玄関の土間からこちらを見上げる心愛と目が合った。


 その瞬間――。


「っ……ごぇっ……ごぇんなざいっ……ごえんなざぁいぃっ……っ!」


 心愛が玄関の土間に泣き崩れた。


 悲痛な泣き声がいつまでも続くけど、慰めることも罵ることもできない。ただ茫然と、玄関の土間で亀のようにうずくまる心愛を見下ろして、腹の底にやるせない悲しみと苛立ちを溜めて行く。


 そうして、一時間?二時間?――が経っただろうか。立ち尽くしだった俺の足は冷たく痺れ、土間に突っ伏す心愛の声は掠れて出なくなっていた。


 そこに――。


 ピンポーン!ピンポーン!


 と、再び来客を告げる呼び鈴が鳴った。


 今日に限って、しかもこんなタイミングで……と思ったが、すぐに来客の身元は割れた。


「んんっ……失礼するよ」


「あの、お邪魔します……」


 硬い動作と声色で、我が家の玄関に現れたのは、心愛の両親――俺にとっての義両親だった。


「清司郎君……この度は、娘が申し訳なかった!」


「本当に、心愛がごめんなさいっ……!」


 義両親は玄関に入るなり深々と頭を下げた。


 俺は義両親の後頭部を見下ろしながら、グチャグチャだった気持ちが急激に冷めて行くのを感じた。


「……で、なんの御用でしょうか?」


 謝罪には答えず、ただ用件だけを促す。大人としてあるまじき態度かもしれないが、知ったことじゃない。


「あ、ああ……その……心愛を、許してやってもらえないだろうか……?」


「心愛も本当に反省しているんですっ……お願いしますっ!」


 やはり、浮気嫁を生んで育てただけあって、義両親もクズだったらしい。


「許す許さないの問題じゃない。あなた方親子は、俺や大勢の人間を騙して結婚だの夫婦生活だのと茶番をやらせたんだ。裏じゃ鈴木春詩音すずき はるしおんとかいう浮気相手と俺を嘲笑いながらっ……!」


 歯を食い縛り、吐き捨てる。感情が、また昂って来た。


「ま、待ってくれ!私達も知らなかったんだ!その証拠に、ホラ!娘から浮気のことを聞いて思いっ切り殴り飛ばしたくらいだ!」


 玄関にへたり込む心愛に顔を上げさせ、頬や目元の青黒い腫れを指してアピールする義父。


「そ、そうですっ!私からも打ちました!打って、きちんと叱りましたからっ!」


 義母がコウモリのような金切り声で叫ぶ。


「はぁ……だからなんですか? だいたい、お宅の娘との結婚自体、俺からすれば騙されてしたようなもんなんで……とにかく、今後は弁護士を通して、それで今日はもう帰ってくれ……」


 腹の底では、途方もない落胆とドス黒い怒りが渦巻き始めている。さっさと帰らせないと……。


「でも、まずは、夫婦で話し合ってみたらどうなんだ?」


「そ、そうね、弁護士なんて挟まないで、夫婦で話し合うべきだわ!」


 勝手なことを言う娘の教育に失敗した義両親に、俺は黙ってスマホに保存していた動画を見せる。



『別に……謝るようなことしてないし……アタシとハル君は愛し合ってるだけ……』


『お前、ここまでの会話は全部録音録画してるからな。離婚届書くとき絶対にゴネるなよ』


『ゴネてほしいの?ゴネるわけないよ。アタシが本当に好きなのは今も昔もハル君だから、セイ君と離れられて清々する』


『それは良かった。じゃあ、俺は早速市役所に行ってくるから、お前の有責なんだし荷物まとめてさっさと家から出て行けよ』


『なによ出て行けって!偉そうに!そういうところもケチで小さくて本当にムリ!甲斐性なし!』



 弁護士事務所の前で、俺と心愛が決別した時のやり取りだ。


 義両親は目を反らしながら押し黙った。


「俺との結婚が偽装だと証言している証拠もありますが……そちらにも色々と送ったはずなんですけどね、それは見ていないんですか?」


 感情を殺して淡々と聞けば、義両親が顔を上げて目を剥いた。


「み、見れるわけがないだろうっ!」


「そうです!娘のあんな姿っ!」


 一瞬、頭の皮膚がピリ付くような激情が湧いたが、口の内側を噛むことで無理やりに抑え込む。


「では、帰って見てください。あなた方が子供を生んで育てた結果がそれです。弁護士を交えた話し合いでも確認しますので、親として誠意があるところを欠片でも見せて頂きたい」


 実際に確認するかなど分からないが、とにかくこの義両親にもダメージを与えたかった。だから、あえて挑発するような言い方をした。


「ッ――いいだろう!だがっ、心愛はここに置いて行く!」


「そうよ!この家は心愛の家でもあるんですからね!締め出すなんてDVだわ!」


 俺の物言いが癇に障ったのか、義父は顔を真っ赤にし、義母はその肌に無数のシワを刻んで叫び、逃げるように玄関を出て行った。


 俺は残された心愛を見下ろしながら尋ねる。


「……DVってのは、誰に入れ知恵された?」


 弁護士の変更を、本気で考えなければならないかもしれない――心愛の返答を待ちながら、俺はそう考えていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る