第四話『訪問者』





 役所で離婚届をもらい、夜まで時間を潰してから帰宅する。


 あまり早く帰ると、浮気嫁の心愛と鉢合わせしてしまうかもしれないから。


 そして、いよいよ外が暗くなり、そろそろ大丈夫かと帰宅をすれば、狙い通りに浮気嫁の心愛は家を出て行った後だった。



“アイソがつきました。実家に帰ります――”



 テーブルの上には、まるで自分が被害者かのような書き置きが残されていた。


 “実家”――という単語に、俺の脳裏には義両親達の顔が思い浮かんだ。


 一応、今送れる分の浮気の証拠は義実家にも内容証明付きで送ってはあるため、いずれは義両親も事情を知ることになるはずだ。


 そして、そうなった時、義両親は心愛に対してどう接するだろう?


 まぁ、それなりに常識はある義両親だったとは思うが、その一方で、あの浮気嫁を生み育てた親なわけで、土壇場になれば何を言ってくるか分からない。


「はぁ……めんどくせぇ……」


 先々の展開に憂鬱になりながらも、俺は心愛と結婚してから夫婦生活の四年間を過ごした我が家へと視線を移す。


 二人で選んだソファーに、色と柄で揉めたカーテン。分からないから選んでほしいと頼まれた液晶テレビに、家族が増えたときのことを考えて買った大きめのダイニングテーブル……。


 ああ、そのどれもこれもが茶番だった。


 心愛は俺との結婚前から春詩音はるしおんなる間男とデキており、俺との結婚も夫婦生活もすべてが嘘……いや、それどころか、心愛と間男の情事を盛り上げるための当て馬に過ぎなかったのだ。


 心愛と間男は、長年にわたり俺を嘲笑うことも含めた不貞の情交を楽しんで来た。


 その事実はあまりに苦々しく、屈辱的で、自分という人間を全否定された気持ちになる。


「はぁ、空しいもんだなぁ……」


 せっせと働き家事も分担して、いずれは子供を――なんて考えていた自分がバカみたいだ。


「っ……ク、ソ……っ!」


 自然と喉元が震えて、涙が溢れて来た。


 一人では広く感じるリビングで、俺は情けなく惨めにも、声を押し殺して泣いた。泣き続けた。


 そして、その日はもう何もする気が起きず、食べず、眠らず、俺はただ泣いては放心状態を繰り返し、朝を迎えることになった。


 やがて、空が白み始めた頃、俺は不眠と疲労でフラフラ状態の身体を引きずって、我が家の洗面台までやって来た。


 洗面台の鏡に映った自分の顔は酷いもので、瞼は赤く腫れ上がり、目の下にはドス黒い隈が浮き、顔全体はゾンビのように青白い……。


「まるで死体だな……」


 乾いた笑いが漏れる。


 昨晩はフラッシュバックというヤツに苦しめられ、今の俺はまさに精神的に死んでいた。


 特に、俺の場合は質が悪いと思われ、幸福と不幸の記憶が交互になってやって来たのだ。


 というのも、俺が幸せを感じていた心愛との恋人時代や新婚生活の思い出が走馬灯のように浮かび上がり、それがまた余計に悲しく胸を締め付けた。



『大好きだよっ、セイ君!一緒に幸せになろうね!』


『今日はオムライスを作ったんだよ!ケチャップで名前書いてあげるね~!』


『ん~、セイ君の作るご飯ってやっぱり美味し~、幸せぇ~』


『えへへ、今日もお仕事お疲れ様っ、セイ君! 明日は休みだしぃ、今夜はたくさんかわいがってほしいなぁ……?』



 そうした幸せだった思い出の合間合間には、浮気の証拠から知り得た心愛による浮気時の言動が浮かび上がり、その落差にも苦しんだ。



『も~、本当はハル君と結婚したかったのにぃ、それなのにハル君が結婚しちゃったから、アタシは仕方なくセイ君と結婚したんだよ~?でも、いつかは責任取ってね、ハル君っ』


『セイ君とは比べ物にならないくらいハル君とえっちする方が気持ちいい……アタシの本当の旦那様は、ずーっとハル君だよ……』


『セイ君、子供ほしいとか言うんだよ~。アタシがほしいのはハル君との子供なのにさぁ、ウケるよね~』


『んふふ、ハル君の命令通りにぃ、ここ二週間はセイ君にはおあずけさせてるよ?だって、心愛を好きにできるのはハル君だけだもん』



 俺の伴侶であるはずの心愛は、嬉々として間男に絡みつき、卑猥な笑みを浮かべながら積極的に奉仕していた。


 今だって、頭の中にはぐるぐると、そんな地獄のような光景が映し出されている。


「ぅぐっ……ぅっえぇ……!!」


 もう吐き戻す物もないのだが、俺は洗面台にすえた臭いのする液体をぶちまけた。


 ああ、こんなことなら、動画や画像なんて見なければよかった……嫁の不倫なんて、知らないままでいればよかった……弱り切った俺の精神では、そんな弱音さえ浮かんでくる。


 しかも、救いようのないことに、この期に及んでもまだ嫁を愛している自分も存在するのだ。


 どうか、自分のところに戻て来てほしい……この家で、楽しく暮らしていた時の心愛に戻ってほしい……そんな愚かな思いが浮かび上がる。


 そんな心愛なんて、最初からどこにも居なかったというのに……。


 そうして、地獄のような記憶の奔流に苦しんでいると、更なる追い打ちとなる悪魔の来訪を告げる家の呼び鈴が鳴った。


 ――ピンポーン!ピンポーン!ガンガンガンガン!


 突如、呼び鈴とノックの大合唱。


『ちょっと!居るんでしょう!?』


『心愛から全部聞いたんだから!ここを開けなさいよ!』


『アンタ人として本当にサイテー!逃げてないで出てきなよ!』


 非常識かつ近所迷惑な訪問者に、俺は全身の毛穴が開くような感覚と脂汗が滲み出る嫌な感覚を覚える。


 だが、叫んでいる内容から無視を決め込むこともできず、俺は録画機能の付いたインターフォン越しでの応答をすることにした。


「はい、どちらさん……というか、近所迷惑だからやめてもらえる……?」


 昨日から寝ていない所為か、それとも胃液で喉が焼けてしまったか、自分でも驚くほどに不気味な声が出た。


 訪問者は三人の若い女性であり、彼女たちは一瞬だけ押し黙った後、次々に捲し立て始めた。


『あたしら心愛の友達だけど!あんた心愛泣かせたでしょ!絶対にゆるさねぇから!』


『女が泣いて謝ったんだから一度くらいの浮気許すべきじゃん!女性差別者!DV男!』


『そんなんだから浮気されんのよ!とにかくここを開けろ!逃げるな!卑怯者!』


 類は友を呼ぶというやつだろうか?


 不倫者には相応しい身勝手で非常識な友人達。


『心愛に土下座して謝れ!甲斐性なし!』


『早く謝らないと女性差別で通報するから!』


『出て来い!腰抜け!ダメ男!』


 ガンガンとドアを足蹴にする凶暴さ、キチガイのようにがなり立てる様からは育ちの悪さが窺えるし、二言目には差別に繋げようとする悪質さは潜在的な社会悪と言っても良いだろう。


 俺はそんな連中からの罵声をあしらいつつ、警察を呼んだ。


 数十分後、ドアを壊されそうだと大げさに言ったこともあり、思ったよりも多くの警察官が駆け付けてくれた。


 おかげで、我が家の前は結構な大騒動で、ご近所さんや野次馬の数がものすごいことになっている。


 犯人である三人の女は、それこそ動物のように叫び、警察官数名掛かりで連行される様子は凶悪犯そのものだ。


 しかも、そんな注目を浴びる状況で「謝れ!」だの「女性差別!」だの「DV!」だのと叫ぶものだから貯まったもんじゃない。


 結局、三人は最後まで喚き散らしながらパトカーに押し込まれて連行されて行った。


「詳しい話を聞かせていただけますか?」


 残った警察官が説明を求めて来た。


 俺は周囲の野次馬から向けられるこちらを値踏みするような目を気にしつつ、嫁の浮気のことも含め、嫁の友人を名乗る三人から襲撃を受けたことを説明した。


 多少声を張って説明したのは、野次馬へのアピールのためだったが、効果があったかは微妙なところ……。


 しかし、その後は警察官も帰ってひとまずはホッとした。


「少し、寝るか……」


 そう呟いて、俺はリビングのソファーに倒れ込んだ。



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