第三話『決別』





 いきなり胸倉を掴まれた俺は、間男の横っ面に張り手――というか、掌底をブチ当ててしまった。


「ぉごぁっ!!?」


 アイドルのような童顔を愉快に歪ませた間男は、応接ソファーの背もたれの向こう側へと引っくり返り、足だけが天井に向かって伸ばされる無様を晒した。


「フ――ちょっとダメですよ!暴力行為は一切禁止です!」


 一瞬、鼻で嗤ったように思えたが、弁護士先生は厳しい表情で俺を窘める。


 俺はヒクヒクと広がる先生の鼻の穴に注意を奪われつつも、自身の行いを反省して返事をしようとしたその瞬間――。


「ハ、ハル君!だ、大丈夫!?」


 今まで泣き崩れていたはずの心愛が、悲鳴を上げながら俺を押し退け間男の下に駆け寄った。


 そして、心愛に縋り付かれた間男は、「う、うぅーん」と見ている方が辛くなるような大根演技で、ワザとらしく唸って見せる。


「なっ、なんでこんなことするのよ!なに一つハル君に勝てないからって!暴力とかサイテー!もうセイ君なんかとは離婚だから!今回のことだって!むしろアタシとハル君の関係がバレて良かったし!清々する!」


 浮気嫁の心愛は興奮した様子でそう捲し立てた。


 当然、俺だって離婚のつもりだったし、浮気の証拠動画や音声ではもっと酷い貶され方もされていた。


 しかし、面と向かって言われると多少なりとも堪えるものがある。


「ハル君の方が全然かっこいいし!オシャレだし!デートのときだっていつも奢ってくれるし!えっちも上手でアタシのこと大切にしてくれて愛してくれる!」


 好き勝手言ってくれるが、毎月の生活費は俺の給与から出していたし、嫁の希望で義両親に仕送りさえしていた。


 その上で、家事も平等に分担していたのだ。


 また、嫁がパート先の飲み会で遅くなったときは車で迎えに言ったりもしたし、そのパート代だって全部嫁がこづかいにしていた。


 そして、夜の営みだって、むしろ嫁から誘ってくることが多いくらいで、週に三回は普通にあったし、避妊しないこともしばしばだった。


 というか、それを考えると、心愛が間男に言っていた俺への“おあずけ”だの俺とは避妊するだのというのは全くの嘘ということになるが……。


 いや、もうどうでも良いことか――。


 なんだか、ここ数年分の自分の人生が徒労に終わったようで、一気に力が抜けてしまった。


「そう、かよ……」


 俺は力なくソファーに腰を落とす。


 すると、浮気嫁の心愛が興奮した様子で捲し立てた。


「もう今さら謝っても遅いから!アタシは絶対にセイ君のところに戻らない!アタシが居なくなったこと、うんと後悔すればいいよ!」


 するとそこに、今まで薄目でこちらの様子を窺っていた間男が立ち上がり、俺に向かって勝ち誇ったように人差し指を突き付けて来た。


「う、訴えます!暴力の罪により!俺は訴えます!」


 間男は自分の優位を確信してか、その大きな瞳をキラキラと輝かせている。


「弁護士さん!そういうわけですから!さっきまでの離婚だのなんだのは全部取り下げてもらいますから!」


 ツッコミどころ満載の発言を大真面目にする間男。


 当然、弁護士先生は呆れを隠さず切り捨てる。


「はぁ、まったく……それは奥さんと無関係のことですので、とにかくこちらの要求としては離婚と慰謝料と養育費の支払いです。この書類に詳細があります。良くお読みになってご署名し、近日中に返送してください。いいですね、鈴木春詩音すずき はるしおんさん」


 最後に、間男の名を呼び念押しする弁護士先生は、「納得いかない場合はそちらも弁護士を付けることをお勧めしますよ」と締め括った。


 というか、改めて思うけど、名前がハルシオンだからハル君か……。


 色々と周りに気を遣わせそうな名前に、俺の眉間には自然とシワが寄る。


 そんな間男――春詩音はるしおんは、弁護士事務所から出たところでも俺に絡んで来た。


「俺!あんたの暴力のこと訴えるから!」


 鼻息荒く詰め寄って来るが、対峙する俺達の横から奥さんの冷たい声が掛かった。


「ねぇ、さっきから拗ねた子供みたいに不貞腐れて癇癪起こして、なんなの?そもそもアナタから先に掴み掛かったんじゃない。それを返り討ちにされたら訴えるって騒いで……本当にみっともない」


 奥さんの冷たい視線に射貫かれて、さすがの間男も言葉を詰まらせる。


 だが、それに反論したのは浮気嫁の心愛。


「なに言ってるんですか!ハル君が殴られたんですよ!?かわいそうだと思わないんですか!?」


 きっと、不倫者達には“立場を弁える”なんて脳はないのだろう。浮気嫁はこちらを責めるように吠え立てる。


 そんな浮気嫁に対し、奥さんは冷笑を浮かべた。


「かわいそう?じゃあ、私やアナタの旦那様はどうなの?さっきも言われていたけれど、アナタ達は人としてだらしのないことをして私達に迷惑を掛けて傷付けて、それなのにまだ一言も謝ってもいないのよ?」


 それに対し、心愛は不貞腐れながら呟く。


「別に、謝るようなことしてない……アタシとハル君は、愛し合ってるだけ……」


 その返答に、俺もいい加減にうんざりとして来た。


「お前さ、ここまでの会話は全部録音録画してるからな。離婚届書くとき絶対にゴネるなよ」


 ボイスレコーダーは入ったままだけど、あえてスマホのカメラも向けながら念押しすると、心愛が鼻で嗤って言い切った。


「ゴネてほしいの?ゴネるわけないよ。アタシが本当に好きなのは今も昔もハル君だから、セイ君と離れられて清々する」


 事務所では、本当に愛しているのはセイ君だけ!などと叫んでいたが、結局はその場凌ぎの嘘か、それとも覚悟を決めたのか……まぁ、なんにせよ、この分なら揉めることもないだろう。


「それは良かった。じゃあ、俺は早速市役所に行ってくるから、お前の有責なんだし荷物まとめてさっさと家から出て行けよ」


 俺はそう吐き捨てて、間男の奥さんにはもう一度挨拶してから背中を向ける。


「なによ!偉そうに出て行けって!そういうところもケチで小さくて本当にムリ!甲斐性なし!」


「ハハッ――あんな旦那じゃあ、浮気されて同然だね」


 背後からは好き勝手に罵声と嘲笑が飛んでくる。


 それに対し、次いで奥さんの声が響いて来た。


「アナタ達、本当にクズね……これも全部記録してるから、アナタのお義父さんとお義母さんにも見せるから――」


「はっ……え!?ちょ、ちょっと待ってよ!」


「ハル君!もういいじゃん!行こうよ!」


「あ……いや……でもホラっ、子供がさ……!」


 声はどんどん遠くなる。


 俺はもう振り返らなかった。




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