番外編 標樹の木の下で

 標樹苑での昼下がり。

 リュウホとアンゲリーナは、今日も子猫のようにコロコロと転がって遊んでいる。

 リュウホもアンゲリーナも大きくなり、ふたりは少年と少女になっていた。



 今日はアンゲリーナが長いリボンを持って庭の中を駆け回る。

 青い空に赤いリボンが翻る。

 アンゲリーナは躍るようにクルクルと回転する。すると、リボンはアンゲリーナをクルクルと包み込んだ。


 炎虎姿のリュウホは、リボンを見ながらウズウズとしている。

 モフモフの尻尾をピーンと立て、お尻をあげてフリフリとして、獲物を狙う態勢になっている。


 赤いリボンが地面をかすった瞬間、リュウホがリボンに飛びかかる。

 タシと太い前足でリボンを押さえる。


「きゃあ!!」


 アンゲリーナは楽しそうに笑いながらリボンにまみれて転がった。

 ケラケラと声を上げつつ、絡まったリボンから脱出しようと悪戦苦闘する。

 そのたびに赤いリボンがヒラヒラ動き、リュウホはリボンの端をタシタシと叩く。


「リュウホ! それじゃ、リボンからぬけられないよ」


 アンゲリーナが笑いながららリュウホに訴えた。

 

「ごめん、リーナ」


 リュウホは人の姿になると、アンゲリーナに絡まった赤いリボンを解いてやる。

 

「ん? あれ?」

「ええっと、こっち?」

「うん、こっちをこう通して、ここからこれが出て……」


 ふたりは絡まり合いながら、リボンの赤い結び目をたどっていく。

 

「やったー!! ほどけたー!!」


 リュウホがリボンの端を持って、ピョンと飛びはなる。


「ありがと、リュウホ!」


 アンゲリーナも嬉しそうに礼を言った。


 アンゲリーナの首筋に汗が流れる。

 夏の日差しを浴びて、キラリと光った。


 リュウホはそれを見てゴクリと喉を鳴らす。その光りの粒が、とても美味しそうに見えた。

 

 そして思わず、アンゲリーナの首筋を背中からマフと甘噛(が)みした。

 柔らかい首筋が食べてくれと誘っているようだ。


 食べたい……。


 リュウホの心が飢える。



「? リュウホ?」


 アンゲリーナの声にリュウホはハッとする。

 そしてサッと顔を青ざめさせ、慌てて口を離した。


「! ごめん!」


 なんてことをしたんだろう! リーナを食べたいだなんて!!


 リュウホは心臓がバクバクとして、自分のことが怖くなる。


「ん? 痛くないからだいじょうぶよ?」


 アンゲリーナはなんでもないことのように微笑んだ。いつもの遊びの延長だと思ったのだ。


「ううん! ごめん! リーナ!!」


 リュウホはガバリと頭を下げると、標樹苑から駆けだしていった。


「え!? リュウホ? どこ行くの?」


 アンゲリーナが呼び止めるが、リュウホにはその声すら聞こえなかった。



*****



 リュウホは北斗苑の標樹の上に登っていた。

 まだ心臓がバクバクといっている。


 こわい……。どうしよう。俺、自分が怖い……。


 なぜ、アンゲリーナに噛(か)みつこうとしたのか。

 炎虎としての本能なのか。


 でも、でも、炎虎のとき、生きた生き物を食べたいなんて思ったことなかったのに……。


 リュウホは狩りが好きだ。炎虎の姿ではその欲求が大きくなる。

 かといって、捕らえたものを殺したいわけではない。

 ヒラヒラと舞うチョウチョも、ピョンピョンと跳ねるバッタも、捕まえはするが殺したことなどなかった。


 さっきは人の姿だったのに。……なんでリーナが美味しそうなんだろう……。


 リュウホはスンと鼻をすすり上げた。

 瞼を閉じればその裏に、先ほどのアンゲリーナの姿がちらつく。

 

 小さなころからずっと一緒で、いつでも今日のように遊んできた。

 お互いにお互いのことを一番よく知っている。


 俺、リーナこと大好きなのに。一番大好きで、一番大事なのに。


 狩りの本能が抑えられないのなら、同じように遊んでいたら危険だ。いつか小さなアンゲリーナを傷付けて取り返しのつかないことになる。

 

 リュウホは自分の手のひらを閉じたり開いたりしてみる。

 日に焼けた人の手だ。どっしりと厚い手のひら。指の一本一本が太く、付け根には剣を握ったタコがある。


 アンゲリーナの白魚のような手とはあまりにも違っていた。


 小さいころには気がつかなかった。俺たち、こんなに違うんだ……。


 リュウホはスンと鼻をすする。


「リュウホー!! リュウホ、どこー?」


 アンゲリーナがリュウホを探す声が響いてくる。

 

 リュウホは木の上から声のもとに目を向けた。

 アンゲリーナは、キョロキョロと辺りを見まわしている。


 リーナ……!! 探しにきてくれた!!


 そんなアンゲリーナを見て、リュウホはビビビと鳥肌が立つのがわかった。

 喜びでボワリと尻尾が飛び出した。耳もピョコンと現れて、アンゲリーナの声を拾うのに必死になる。

 

 リーナだ! リーナ、リーナ!


 嬉しくて抱きしめたくて、体中がウズウズとする。尻尾はブンブン振れてしまう。

 でも、また先ほどのように噛んでしまうのが怖くて、リュウホは木から下りられない。

 見つからないようにと体を縮めたらガサリと木の葉が音を立てた。


  標樹の葉がヒラリと落ちて、アンゲリーナの頭に乗った。アンゲリーナは、木の葉を取ろうと顔を上げた。


「リュウホ!」


 アンゲリーナは標樹に登るリュウホを見つけて、満面の笑みになり両手を広げた。


 まるで胸に飛び込んでこいと言わんばかりの様子に、リュウホの胸は締め付けられる。

 アンゲリーナはリュウホよりずっと小さい。絶対に受けとめきれるわけはないのに、体全部でリュウホを待つ。


「りぃなぁ……」


 嬉しくて泣き声になるリュウホに、アンゲリーナは微笑みかける。


「リュウホ、おいで!」


 そう呼びかけられて、リュウホはもう我慢できなかった。

 標樹の上からアンゲリーナに向かってダイブする。

 アンゲリーナの目の前に着地して、フンワリと優しく小さな女の子を抱きしめた。


 アンゲリーナは嬉しそうにリュウホの背中に手を回す。

 なにも疑う様子もなく、純真な好意でリュウホを包み込む。


 リュウホは思わずいつものように鼻と鼻を擦り合わせた。

 しかし、今日はアンゲリーナの唇が目に入る。


 サクランボみたいで、かわいい。食べちゃいたい。舐めてみたい。口づけたい。


 そう思って、リュウホはボッと顔が熱くなった。


 俺……噛みつきたいんじゃなくて、口づけたいんだ……。


「わぁぁぁ」


 リュウホは恥ずかしさのあまり、バッとアンゲリーナから離れた。


「どうしたの?」


 アンゲリーナはキョトンとして小首をかしげる。


 リュウホは心臓がバクバクとして痛い。


「リュウホ?」


 澄んだ青空色の瞳がリュウホの顔を覗きこむ。純粋無垢(むく)な親愛を真っ直ぐに向けてくる。


 リュウホはアンゲリーナの頬を両手で包み込み、コツンと額を合わせた。


「……リーナ、好き」


 心の底から振り絞る、いつもとは意味の違う『好き』。


 アンゲリーナは額をリュウホに擦り付けて、いつものように笑って答えた。


「好きよ、リュウホ」


 リュウホはその屈託のない声に、ちょっとだけ淋しく思う。


「さっきは、噛んじゃってごめんね」

「痛くないから大丈夫」

「でも、ごめん。怖かったでしょ?」

「リュウホにだったらなにされても大丈夫よ」


 アンゲリーナはキラキラと清廉な笑顔を向けた。


「……リーナ、そんなこと、言っちゃ駄目。いやならいやって、言わなきゃ駄目」


 リュウホが少しむくれて注意すると、アンゲリーナは小さく笑う。


「うん。嫌なら嫌っていうよ。だからね、リュウホ、大丈夫よ」


 アンゲリーナはそう言って、リュウホをギュッと抱きしめた。


「もう、リーナには叶わないな」


 リュウホはプッと吹きだして、アンゲリーナを抱きしめ返した。


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