第36話36.フェイロンと天使


 この人が、父。私を捨てた、皇帝。


 皇帝に認められなくてはいけない。きちんとしなければいけない、そうわかっていても、感情が抑えられない。


 涙の結界が壊れて、頬にポロポロと雫が転がる。


 何度ループしても、一度も会えなかった父。憎まれた記憶はあっても、愛された記憶はない。愛を求めたこともない。どうせ求めても無駄だと知っていた。

 だから、命さえ助かればそれでいいと思っていた。父に向ける感情などとうに消えたと思っていた。

 

 そのはずなのに、激情がアレの胸の中で嵐を起こした。


 こうやって認めてくれるなら、なぜもっと早く迎えに来てくれなかったの?

 そもそも、どうして追い出したの?

 名前も決められていたはずなのに、どうして『アレ』だなんて!!


 アレはフェイロンの胸をドンと叩いた。


「どうして!」


 恨む気持ちが言葉にはならず、たった一言の嗚咽になる。胸の中がぐちゃぐちゃだ。


「すまない」


 フェイロンは答え、ギュッとアレを抱きしめた。

 アレは嫌々をしながらフェイロンの胸をドンドンと叩く。フェイロンは叩かれるのもいとわずに、アレを抱きしめて離さない。


 もう二度と離さないと決めたのだ。


「すまない。すまない。私がすべて間違っていたのだ」


 そんな簡単な謝罪で三度のループで舐めた辛酸を許せるとは思えない。

 アレなどと呼ばれなければ、皇帝の娘でなければ、三度も殺されることはなかった。


 でも、それなのに、どうして嬉しいの?

 嬉しいなんて思いたくない。期待して裏切られたくない!


 アレは自分に混乱し身じろいだ。靴がフェイロンの剣に当たる。その剣にはアレが騎士に贈った『天使の守護印』がまだ結びつけられていた。

 

 この人、だったからか。アレのことを何も尋ねず、魔法文字を教えてくれた人。

 戦が終わったのに。無事に帰ってきたのに。汚くて、立派な剣につけるものではないのに。大切にしてくれている……。


 アレはそれに気がついて涙が止まらない。

 父としてのフェイロンは最低だ。許せない。しかし、魔法文字を教えてくれた騎士は、アレにとって間違いなく大切な人だ。その人まで否定できない。


「おまもり、すてなかったの」

「捨てられるわけなどない」

「……」

「私に天使の守護を与えてくれてありがとう。アンゲリーナ」


 フェイロンの言葉に、アンゲリーナは思わず微笑んでしまい、慌てて唇を噛んだ。


 騎士が無事だったのは嬉しい、でも、父様に笑うのは嫌。


 気まずくて、また胸を叩く。しかし、フェイロンは腕を緩めない。


 どんなにアンゲリーナが暴れても、力強く抱きしめたまま離さないフェイロン。アレはもう怒っても泣いても処刑されないと気がついた。


 もう、我慢しなくていいの? 顔色を窺わなくても?


 アンゲリーナは涙に濡れた頬をグリグリとフェイロンの高価な着物に押しつけてみる。それでもフェイロンは怒らずに、アンゲリーナの背中を不器用にトントンと叩いただけだった。


 もう、我慢しなくていいんだ。この腕に甘えていいんだ。


 アンゲリーナはホッとして、身体の力を抜き、フェイロンの胸に身体を預けた。


 フェイロンはそんなアンゲリーナを右腕に腰掛けさせるように抱き直し、執務室を見回して宣言した。


「皇女アンゲリーナだ」


 その一言で、周囲の宮人たちが、アンゲリーナに向かって胸の前で右手の拳に左手をかぶせた。


 黙っていられないのはミオンだ。


「お待ちください! 皇帝陛下! まだアレは三歳です。五歳の命名式を前に皇女などとは前例がございません!」


 その瞬間、リュウホがゴウと吠えた。


 リュウホの咆吼は熱風となり、ミオンとフェイロンに襲いかかった。


「きゃぁ!」


 あまりの熱さにミオンがよろめく。ミオンの髪が熱風にパチリと音を立てた。焼けた匂いがする。


 フェイロンはその腕でアンゲリーナを庇おうとする。フェイロンの魔法と炎虎の炎がぶつかって、風が渦を巻く。

 しかし、熱風はアンゲリーナに触れるまえに熱を失い、ピンク色の髪を巻き上げただけだった。


「炎虎の炎は守りの炎とは本当だったのか……」


 宰相が呟いて、恐れと敬意のまなざしでリュウホを見た。

 リュウホの咆吼はアンゲリーナの耳元をさらした。

 左の耳の裏。そこにはキラキラと光る金の鱗が見えた。


「逆鱗か……!」


 フェイロンは思わずアンゲリーナの逆鱗に触れた。

 五歳の命名式の際、与えられた逆鱗をフェイロンも持っている。しかし、逆鱗は本来五歳になって、命名式の試練を乗り越えた者だけが、皇族の名字とともに与えられるものだった。


 ミオンも目を見張る。


 アンゲリーナは意味がわからずにキョロキョロと周りを見回した。


「げきりん……?」


 金龍から逆鱗を与えられたとき、アンゲリーナは寝ており、自分が逆鱗を持つことを知らなかったのだ。 


 フェイロンはアンゲリーナの桃色の髪を耳にかけてやり、小さな指を左耳の裏に導く。


「ここに皇位継承者の証し逆鱗がある」


 アンゲリーナはリュウホを見た。


「リュウホは知ってたの?」

(金龍がお前に埋めてた)


 リュウホが言って、アレは驚いた。


「金龍が?」

(お前が寝てるときに。あいつ、むっつりスケベじゃね?)


 リュウホの言い方にアレはぷっと吹き出した。


「金龍とは?」


 フェイロンが尋ねる。


「げきりんはきんりゅうがくれた、みたいです。リュウホがみてたって」


 アンゲリーナは説明する。


「そうか。金龍にも愛されているのだな」


 その言葉に、アンゲリーナはフェイロンをジッと見た。


 この人、「金龍にも」って「自分も」って意味だとわかって使ってるのかな? 

 

 フェイロンはその空色の瞳に、憎しみの影がなくホッとして、今度はしっかりとアンゲリーナの頭を撫でた。

 アンゲリーナはあまりに見つめすぎていたと気恥ずかしくなり、誤魔化すようにニコリと笑う。

 アンゲリーナの恥じらう笑顔にフェイロンも思わずつられて笑った。


 子どもの頭を撫でたのはいつぶりか……。こんなことで喜ぶのか。


 ふとキリルの顔が脳裏を過り、胸がチクリと痛む。父の愛を知らないフェイロンは、子どもへの接し方がわからないのだ。


 私は最低な父親だ。でも、今からでも変われるだろうか。


 腕に収まる小さな温かさの儚さに、フェイロンは胸が苦しくなる。


 変わらなくてはいけない。そうだな? ファイーナ。


「この子は、皇女アンゲリーナ。以後、そのように接するように」


 フェイロンはアンゲリーナを抱いたまま、再び厳かにそう告げた。

 

「バカな……、こんなこと許されない……」


 ミオンは力なくそこへ膝をついた。

 宰相がミオンを険しい目で睨んだ。


「後宮の主アンゲリーナ殿下に誠心誠意お仕えせよ。ミオン」


 ミオンはうなだれ、憎々しげに「はい」と答えた。




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