第37話37.皇女の生活
それからアンゲリーナの生活は一変した。
北斗苑の侍女や騎士たちは、正式にアンゲリーナの住む北辰宮へ移された。ミオンは相変わらず女官長だ。仕事の能力という点では、今のところミオンの代わりになる者はいないのだ。
しかし、後宮の頂点に立つのはアンゲリーナとなった。そのため、おいそれと危害を加えられない。
アンゲリーナは改めて自室を与えられた。
フェイロンの隣の部屋でアンゲリーナは気まずい。
騎士のことは好きだけど、父様は苦手。
結局、以前と変わらずキリルの部屋で生活している。寝顔を見ようとアンゲリーナの部屋へ向かえば、ベッドは抜け殻で、試しにキリルの部屋を覗けば、そこでリュウホと共に川の字になって寝ている。
フェイロンは不満に思いながら、口出すことはできなかった。
アンゲリーナの皇女としての生活が始まった。
午前中は皇女として勉強をする。魔法の勉強はフェイロン自らが教えた。
昼食はキリルといっしょに摂り、運動を兼ねて、午後三時には執務室へおやつを配りに行くことが正式に定められた。残りの時間は、紫微城内を歩いたり、北斗苑で遊んだり、図書館へ行ったり、自由に過ごす。フェイロンが帰ってきたことで、時間に余裕ができたキリルやジュンシーと過ごす時間も増えた。もちろんリュウホはいつでもいっしょだ。
夕食は毎日家族で円卓を囲むよう命じられた。
今までは別々に摂っていたため、キリルはフェイロンの変化に驚いた。フェイロンにしてみれば、そうでもしないとアンゲリーナと話せないと思ったのだ。
しかし、リュウホがいない食卓で、アンゲリーナの食欲がなくなってしまった。キリルがそれに気がついて、リュウホを食卓に加えるよう進言し、リュウホもいっしょに夕食の席に着くことになった。
キリル、アンゲリーナ、リュウホ、フェイロンの順に並ぶ。アンゲリーナは苦手なフェイロンとの間にリュウホがいてくれることで安心し、フェイロンは逆に不満だった。
皇女と認められたことで、紫微右垣に住む人々はアンゲリーナに少し距離を取るようになった。突然、皇女と呼ばれるようになったアンゲリーナにどう接していいのかわからなかったのだ。
なにしろ、五歳以下で皇女と認められた例はない。しかも、最近まで疎まれていた子どもだ。いつ皇帝の気が変わるかわからない。そのとき、深く関わったことで巻き込まれるのは嫌だと保身に走る者が多かった。
アンゲリーナが散歩をしていても、気さくに声をかけてくれる人はいなくなった。逆に、アンゲリーナが過ぎ去ればヒソヒソと噂話が囁かれているようだった。
リュウホの耳がそれを拾い、イカ耳になる。
アンゲリーナは、悲しいと思いつつ、仕方ないとも思った。
北斗苑の人々は北辰宮にやってきたが、アンゲリーナはいまでも土蔵へ遊びに行く。
葛籠箪笥の中にある本や日記を読みに行くのだ。
一度、北辰宮へ運ばせようと試みたのだが、葛籠箪笥は動かなかった。
中を空にしようとしたが、そのときはどうしても鍵を開けることができなかったのだ。
そのためアンゲリーナは諦めて、リュウホとふたりで通うことにした。
シトシトとした長雨がここ一ヶ月ほど続いている。
豪雨ではないが、なかなか晴れ間が見えず、なんとなく鬱々としている。外で遊べないリュウホとアンゲリーナは土蔵の二階でゴロゴロしていた。
北辰宮は快適だが、何かしようとすればすぐに侍女や騎士が現れて、あれやこれやと手を出してくる。自由な時間が少なくなった気がして、アンゲリーナは疲れてしまうのだ。
キリルがいるときはキリルの膝を勧められるし、フェイロンはフェイロンでジッとアンゲリーナの様子を窺っている。
「皇女って大変だったのね……」
げっそりとした様子で呟けば、リュウホは笑った。
(皇女が、じゃないだろ? リーナだからだ)
名前を与えられてから、リュウホはアンゲリーナを愛称のリーナと呼ぶ。アンゲリーナをリーナと呼ぶのは、あとはキリルとフェイロンだけだ。
リュウホはトンとアンゲリーナにお尻をつけた。
アンゲリーナはリュウホの背中に寄りかかる。リュウホの背中はもふもふで、薄暗い土蔵の二階でも温かく、オレンジ色にほんのりと輝いて見える。リュウホといると心の中までホカホカになる。
「リュウホ、もふもふ」
アンゲリーナがうっとりとして、リュウホの背中に顔を埋める。
リュウホは満足げに尾っぽでアンゲリーナを抱きさすった。
「くすぐったい」
(俺だって)
「嫌?」
(や、なわけない。もっとナデナデしろ)
ふたりでクスクスと笑い合う。
土蔵の二階は二人の秘密の隠れ家だった。
ふと土蔵の外から声がした。丸窓からアンゲリーナとリュウホは下を覗き見た。ふたりの下男が、噂話をしていた。
「これもいい加減壊すのかな?」
「まぁ、皇女殿下も皇宮へ移られたし、必要ないしな」
「そういえば、皇女殿下の噂を聞いたか?」
「天使というやつか?」
「いやいや、この長雨の原因が皇女殿下にあるってよ」
「ああ、皇女殿下が逆鱗をねつ造して龍の怒りに触れたとかってやつか?」
「それそれ。大きな災害が起こるだろうってさ」
「本当なら恐ろしい話だよな」
「ユール国の魔女の娘ならさもありなん」
「おまえ、誰かに聞かれたら!」
「ファイーナ皇后殿下のためにどれだけの氏族が皆殺しにされたか、覚えてないのか? 俺の主も殺された。実際、皇女殿下に皇帝陛下も皇太子殿下も骨抜きにされているらしいじゃないか。治癒の力があると聞くぞ? 魅了の力もあるんだろうよ」
リュウホはカッとして吠えようとする。
アンゲリーナは慌ててリュウホの口を押さえた。
そして窓の下に身を隠す。
「バカな冗談は止めろよ。ここは一応紫微城内だぞ」
「一応、だ」
そう言いながら下男たちはその場を離れていった。
アンゲリーナはリュウホの口を離す。
プハッとリュウホは息をした。
(なんで怒らないんだよ! どうせ、ミオンが言いふらしてるんだ!! だから右垣の奴らも冷たくなったんだ!!)
「それより気になることがあるの!」
アンゲリーナは慌てて、葛籠箪笥を開けた。
先ほどの話を聞いて、ループ前のことを思い出したのだ。
「本当に災害が起こるかもしれないの!」
(お前の逆鱗は金龍がくれたのに!)
「ちがう、そうじゃなくて、この長雨で土砂崩れが起こるかもしれないの!」
一度目の人生で、北斗苑の裏山が土砂崩れを起こしたのだ。紫微城は魔法の防御壁で守られており、北斗苑も被害は出なかった。
アンゲリーナは、ひとりきりの夜の土蔵で、地鳴りを恐ろしい思いで聞いていたことは忘れられない。誰も助けに来てくれない、逃げ出すこともできないと、ただただ薄い布団を頭からかぶり震えていた。
しかし、その後ループし、この土砂崩れのせいで紫微城外に住む多くの人々が亡くなったと知った。酒場の主人の兄弟も巻き込まれ、何年経ってもその喪失に苦しめられていた。たくさんの人に愛されていた人が亡くなり、誰にも愛されない自分が生き残ったことを知り、罪悪感を抱えていたのだ。
「もしかしたら、葛籠箪笥の中に過去の例があるかと思って」
アンゲリーナはバサバサと葛籠箪笥を漁った。
胸にかけていた木札がフワリと浮き上がり、一つの本を指し示した。
「これ?」
アンゲリーナは指し示された本を手に取る。
どうやら昔の日記らしい。
手に取った瞬間ページがバーッとまくられて、一枚のページが開かれた。
文字が光って見える。しかし、古く達筆な文字でアンゲリーナには読めなかった。
急いで木札を覗いて見る。アンゲリーナに読める文章となって、文字が現れた。
「以前の土砂崩れの日記だ! 百年前だけど、日付も近い!」
(じゃあ)
「でも、詳しいことはこれだけじゃわからないから、図書館へ行こう」
(ああ)
リュウホはアンゲリーナに背を向ける。アンゲリーナはリュウホにまたがった。
(行くぞ! ちゃんと掴まってろよ!)
アンゲリーナはリュウホの首にしがみついた。
リュウホはアンゲリーナと出会ってから、グングングングン大きくなった。
細い雨の中をオレンジの虎が疾風のように駆けていった。
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