第35話35.アレ
「皇帝陛下、アレを連れてきました」
そう言うと乱暴にアレを引っ張り、皇帝の前に出した。
アレは目の前にいるフェイロンを見て目を見張った。
標樹の……騎士?
(こいつ! 皇帝だったのか!!)
「頭が高い!!」
ミオンはそうきつく窘め、アレの頭を押す。
思わずよろめき、そのまま跪いた。
兄様はしなくてもいいと言っていたけれど、皇帝は許さないかもしれない。
息を止め、必死に覚えてきた有職故実を思い出す。最大限の礼。
そうして床に頭を打ち付けようとした瞬間、目の前に手が差し出された。
「大丈夫か?」
フェイロンだった。アレは思わず手を取ろうとし、自分の手のひらが汚いことに気がついた。あわてて手を拭おうとしてハンカチを探し、ドレスも汚れていることに気がついた。
「よ、よごれましゅ」
また噛んだー!! 大事なときに噛むのどうしてなの!?
アレは半泣きになり俯く。
「気にするな」
フェイロンはそう言うと、自分の着物でアレの手をふいた。
「ありがとうございましゅ……」
小さな声でアレは答える。また噛んでしまった……。
そしてアレの手を取り、立ち上がらせる。
この人、皇帝陛下、なんだよね? 見たら私を殺すといっていた人なんだよね? このまま殺されちゃうの!?
半泣きのままカチコチになる。
「皇帝陛下、ご挨拶がまだでございます」
ミオンは内心イライラとしながら、柔らかく指摘した。
「このような小さな子、挨拶など必要ない」
周囲の宮人たちはそんなフェイロンの様子に戸惑い、ジッと様子を窺っていた。
宰相が困ったように眉を下げた。
アレはオズオズと顔を上げ、フェイロンに願う。
「ごあいさつをさせていただきとうごじゃいましゅ」
「そうか」
フェイロンは無表情のままアレを見つめた。
小さな可哀想な子どもというだけで特別扱いされてしまうと、その後ミオンに何を言われるかわからないもの!
アレは跪き、頭を床につけようとした。
その様子を見て宮人たちがザワつく。今では誰もしない、前皇帝時代の最大の礼を幼女がしようとしていることに驚いたのだ。
「三跪九叩は廃止された。立ちなさい」
宰相が慌てて制止させる。
アレは立ち上がり、胸の前で左手の拳に右手をかぶせ、拱手(きょうしゅ)の姿勢を取る。
「あまくものかずちのうえよりたまいし、てんていのけつみゃく。きんのうろこのもちぬし。ジンロンていこくのりゅう、フェイロンこうていへいかにごあいさつもうしあげます。じんろんていこくにひかりあれ」
アレが挨拶を述べると、執務室はシンとした。宰相は満足げに頷いた。
アレは頭を下げ、ダラダラと冷や汗をかいた。
ど、どうしよう……。まちがってた?
ミオンは、怒り心頭な面持ちでアレを睨んでいた。
いつこんなものを覚えたの? どうせ挨拶をさせればぼろが出て、それを理由に不敬に問えばいいと思っていたのに!
「こんな子どもに三跪九叩などたたき込んだのはお前か、ミオン」
フェイロンの声は冷たかった。
ミオンはグッと息を呑む。
「いいえ、私はそんな」
「では、この子が自ら覚えたというのか?」
ギロリとフェイロンがミオンを睨む。
「わたし、じぶんでおぼえました。だって、だれもべんきょうおしえてくれなかったから」
アレが答える。その答えにフェイロンはガツンと殴られた気がした。
そうだ、私がこの子に何も与えようとしなかった。それなのに、この子は自分で手に入れようと努力した。
胸に迫る熱い感情が、フェイロンには何かわからない。それでも、目の前の子どもに触れたいと思った。
フェイロンは感情のまま、アレの頭を撫でようとした。アレは驚き、ギュッと目をつむり身体を硬くする。殴られると思ったのだ。
フェイロンはその様子に戸惑い、上げた手をさまよわせ、ゆっくりと触れるか触れないかの力でアレの髪に触れた。
もしかして、撫でようとしてたの?
アレはオズオズと顔をあげる。
「正しい礼であった」
フェイロンはぶっきらぼうに、ぎこちなく言った。
褒めている……んだよね?
アレは殴られないとわかって身体の力を抜く。
フェイロンは唐突にアレを抱き上げた。
「こうていへいか!!」
アレは慌てる。
「リーナ……」
フェイロンの声に宮人たちが息を呑んだ。
「リーナ?」
アレは小首をかしげた。標樹の下でもそう呼びかけられたのを思い出したからだ。
「リーナ、お前の名前はアンゲリーナ。母が名付けた、天使という意味の名だ」
「……アンゲ、リーナ。アンゲリーナ……」
アンゲリーナは自分の名前を初めて呼ばれ、口の中で味わうように復唱した。
兄様は知っていたの? 知っていて、天使と呼んだの? 生まれる前から、名前があったの? 始めから、アレじゃなかったの?
ブワリと胸の奥が熱くなってくる。
「そして私はお前の父だ」
「……とうたま?」
アレが涙をたたえて小首をかしげる。宮人たちは、ハゥと胸を押さえた。
フェイロンは静かに頷いた。
「そうだ、お前のとうたまだ」
フェイロンの一言に、周囲は驚き目をそらした。柔らかく暖かい空気に、ニヨニヨと顔がほころぶ。
冷酷非情と呼ばれている皇帝が、自らを「とうたま」などと称するとは誰も思わなかったからだ。
宰相は目頭を押さえた。
愛妻を失ってから、心を失ってしまったようだった甥が、心を取り戻したように見えたのだ。
「とうたま」
もう一度アンゲリーナが呟く。フェイロンはアンゲリーナの小さな手を取って、自分の頬に当てた。
「そうだよ、アンゲリーナ。私はお前のとうたまだ」
アンゲリーナの胸の奥で何かがはじけた。
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