第33話 姿見 (かつての投稿時テーマ 学校)

 その姿見は校舎の一階、廊下の端に設えられている。

 私は、放課後、その前に立ち、身なりを整えてから帰る。可愛い顔立ちに見合った身嗜みをしているかを確認するために。周囲は「お高くとまっている」と陰口を囁くが、これこそが美人の特権だ。

 今日もまた覗き込む。背中から西日が差し込んで見難い。私は一歩近付く。

 その瞬間だった。何かに引き摺られる様な感覚に襲われた。身体から意識、いや魂だけが遊離した。姿見が眼前に迫って来て、私は鏡の中へ嵌り込んだ。

 振り返る。私が立って居た。私は、自分の体を叩き、摩って、抱き締め、そして嬉しそうに足踏みをしていた。

 私は慌てて両腕を差し伸ばした。だが、あと少しの所で私の身体に届かない。もどかしい。悔しい。「私の身体、返しなさい」と叫んだが声は出なかった。姿見から外の世界へ出せるのは腕だけだった。「あと少し」が私には久遠の距離だった。

 外の世界の私が、姿見に向かってにっこりと笑った。美人の顔に似合う、魅力的な微笑みだった。話し掛けて来る。

「有難う。この身体、大事に使うから安心してね。貴女は、代わりの誰かが来る迄、そこに居てね。

 この身体を取り戻したいと思っているわよね、きっと。美人で、スタイルも良いから尚更よね。でも、安心して。すぐにそんな事はどうでも良くなるから。自分の身体への固執も、良心の呵責も霧散するから」

 それだけ言うと、外の世界の私は踵を返し、本当に楽しそうな足取りで去って行った。

 私はその後ろ姿に、呪詛と哀願で綴られた無音の号泣を投げ掛けた。

 それから、何年が経っただろうか。私は、未だに、鏡の中に居る。

 鏡の中にずっと居ると、ここのルールが分かってきた。

 私が鏡から両腕を差し出せるのは、廊下の向こう側の端に設えられている小さな窓からの太陽の光が直接に差し込んでいる時間だけ。長い廊下は正確に東西に伸びていて、その西端に小窓があり、東端に姿見がある。小窓からの日射が姿見に届くのは、春分・秋分を挟んだ数日間の日没近いごく僅かな時間だけ。

 その時間に、私の腕が届く距離に誰かが立ってくれる確率なんてどれ位なのだろうか。きっと、とても些細な数字に違いない。

 私は、絶望と諦観に彩られて、外の世界を見続けた。希望に満ちた少女たちは、笑いあい、楽しげな会話をしながら通り過ぎていく。外の声を聞き取れるのが本当に辛い。

 ある日、私の前に少女が立った。鏡面には小窓からの光が直射されている。条件は揃った。

 少女は、猫背で、一重の眠そうな細い眼をしている。鼻は上を向いて、唇は異常に厚い。スタイルも貧相だった。愚鈍であるが故に虐めの対象になっているのも知っていた。今も片目の辺りを腫らして、その具合を覗き込んでいる。

 だが、そんなことは関係ない。

 兎に角、自由になるのだ。躊躇なく両腕を伸ばすと、私は少女の魂を引き摺り出した。

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