第28話 御神渡り (かつての投稿時テーマ 関東・甲信)

 諏訪湖温泉の宿に着くと、フロントが御神渡りが発生していると教えてくれた。

 御神渡りは、厳冬の諏訪湖で湖面が厚く凍った後に、昼夜の温度差により氷の膨張と収縮が繰り返された結果、氷が大きな音を立てながら、湖を横切る様に一気に裂けて、山脈状に盛り上がる現象だ。大人の背丈を越えて盛り上がった事もあったらしい。

「今年は、近年稀な素晴らしさだと噂になっております」

 フロントは、そう付け加えた。

 私は、興味を覚えた。

 翌朝、星がきらめいている時刻に、私はホテルを出た。ハンドルを握り、諏訪大社上社近くを目指した。

 車から出ると、鋭い冷気が肌を突き刺してきた。私は、慌ててコートのフードをかぶり、手袋をした。

 足元に注意を払いながら、岸辺へと下りて行く。もやの様な、霧の様な白っぽい空気が私にまとわりついてくる。

 水際に立った私は、思わず、ほぅと声を立てた。

「これは、なかなか立派な」

 まだまだ薄闇の中なのだが、それでも氷が犇めき合って山脈のように盛り上がっている姿が見て取れた。

 これは、明るくなるのが楽しみだ。

 そんな事を思って、御神渡りを眺めていると、その峰々の上をぴょんぴょんと跳ねるようにしながら、近付いてくる小さな影が見えた。

 影は、徐々に大きくなり、やがて少女の形になった。髪を後ろで一つにまとめた、快活そうな少女だった。小学校の高学年くらいだろうか。

 軽やかだった影の動きが、突然に止まった。私の存在を認めたためらしい。

 それでも少女は、歩調をゆっくりに変えて、御神渡りを遂には渡り切った。

 岸辺に降り立った少女は、私の顔をまじまじと見上げた。

 悪戯を見つかって、どう言い繕おうかという表情だった。本当は、誰にも見つからないうちに渡り切る予定だったのだろう。

 私は怒るつもりはなかった。少女の気持ちも分らなくなかったからだ。

「向こうの下社側から渡って来たのかい」

 私の尋ねた口調が普通だったので、少女は安堵したような表情になった。

「うん。どうしても、一度渡ってみたくて」

「楽しかったかい?」

「うん」

 少女は嬉しそうに笑った。

「でも、もうしない事だね」大人の一人として釘は刺しておこう「危険で、あまり褒められた行為じゃないから」

「うん、楽しかったけど、危ないのも良く分かった。だから、もうしない」

 そう言うと、少女は私の脇を駆け抜けて、走り去っていった。

「ありがとう。怒らないでくれて」

 走り去った方向から、そんな声が届いた。

 私は苦笑した。

 明るくなった湖畔で、御神渡りの風景を堪能した私がホテルへ帰りつくと、フロントが尋ねてきた。

「今朝はどちらで御神渡りをご覧になられましたか」

「上社の方のだけど、何か」

「そうでございますか」フロントは、安堵した様に息をついた。「いえ、夕べ、下社側の湖畔で事故がありまして。女の子が、御神渡りの氷の割れ目に落ちたらしいのです」

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