第27話 碓氷峠にて (かつての投稿時テーマ 関東・甲信)
私の父が生まれた直後の話である。
その頃、我が家は少しばかり裕福だったらしく、中古の国産車を持っていた。
当時の国産車は山道を登ればオーバーヒートをして当然の代物だった。
それでも、祖父母は色々な所へとドライブへと出かけた。
その日は、桐生を巡って、高崎に入り、軽井沢へ抜けて一泊の予定だった。
高崎から軽井沢へ抜ける為に、国道18号線を走っていると、道は次第に急な上り坂に入り、九十九折りとなっていく。
難所、碓氷峠である。
案の定、祖父の運転する車は、途中でオーバーヒートである。
祖父母は車を脇に寄せると、ボンネットを開けた。
白い蒸気が吹きあがってきた。冷えるまで休憩。夕闇が迫っていたので、積んであったランタンに灯りをともす。
祖父は煙草をくゆらせ、祖母は泣きぐずる父をあやして過ごした。
すると、後ろから「もうし」という声が掛った。遠慮がちな優しげな声だった。
祖父母が振り向くと、そこには石段があって、若い女性が下りて来るところだった。彼女もまた乳飲み子を抱えていた。
「どうかされましたか」
心配そうに尋ねてくる。
見れば、石段の上には灯りがいくつか浮かんでおり、小さな集落があるようだった。
「車のオーバーヒートです。いつもの事です。冷えるのを待っているんです」
「そうでしたか」
女性の声は、少し安心したかのよう感じだった。
「御心配、ありがとうございます」
それをきっかけに、彼女と祖母は雑談に興じた。
そのうちに、女性はふと真面目な顔になり、祖母にお願いがあると言い出した。
「わたし、産後の肥立ちがあまり良くなくて、お乳がほとんど出ないんです。
だから、いつもこの子にひもじい思いをさせていて。もし、良かったら、お乳が余っていたら、分けて頂けませんか」
祖母は、乳房が張って困る位だったので、快く引き受けた。
祖母は、二人の赤ん坊を両抱きにして、両の乳房からたっぷりと乳を分け与えた。
二人の赤ん坊は、思いのたけ乳を飲み、ほぼ同時に満足そうな顔で眠りに就いた。
女性は自分の子を受け取ると、すやすやと寝息を立てる顔を覗き込んで、本当に嬉しそうだった。
やがて車は動くようになり、祖父母は軽井沢へと向かった。
女性はずっと見送ってくれていた。
翌日、帰路に碓氷峠を通りがけに、その女性の所に寄ろうという話になった。
車を止め、石段を上がっていくと、その上には何もなかった。ただの広場になっていた。
近くの商店に寄り話を聞くと、二十年ほど前までは十戸ほどの家があったが、ある年の梅雨の大雨で土砂崩れが発生して、全ての家を飲み込んでしまったという。
初老の店主は、色々と説明をしてくれ、最後に悲しそうな表情でこう言った。
「本当に、痛ましかったよ。
特に、生まれたばかりの赤ちゃんを抱きしめたまま息絶えていた母親の遺体を掘り出された時にはねぇ。
あの時の光景は、今でも夢に出てくるよ」
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