第23話 退屈で報われない日々 (かつての投稿時テーマ 東海)
春が近くなる。
また、今年も、祖父が舟を浮かべ、しらすを採る季節になった。
小さな、人が一人か二人乗ればいっぱいいっぱいの、そんな粗末な舟を湾に浮かべて漁をしている。
漁協の仕立てた船団からは、一艘だけ、遠く離れてゆらゆらと浮かんでいる。
きらきら光る、穏やかな朝の海に、浮かんでいる。
私は、岸辺から、その姿を眺める。
以前は、わざわざ時間を割いて眺めに来ていた。しかし、仕事を辞した今は、贅沢に好きなだけ眺めていられる。
そんな生活が許されるくらいには、陸の上で一所懸命に働いたという自負はある。
会社は嘱託で残ってもらいたそうだったが、未練のある仕事でもなかったので、気付かぬふりをしてさっさと辞めた。
私は、本当は漁師をやりたかったのだ。
貧しくても良いから、しらす等を採って生きていきたかった。
私にとって、祖父は憧れの存在だ。
小さな舟に乗り、黙々と、丁寧に、漁をしていた。
父は、それを退屈で報われなかった日々と言っていた。言いながら、コップ酒をあおっていた。
そんな父は、もういない。好きでもない酒を飲み続けたのが原因で、定年退職直前に死んだ。楽しみにしていた「余生」を一日も堪能できなかった。
父は……、父も、また、祖父のように小舟を浮かべて、日がな一日、漁師をして過ごしたかったのだ。実際に、中古の小舟くらいならばゆうに買えるほどの貯え準備をしていた。
それなのに、父はそれを叶えることなく逝った。
本当に、海に出たかったろうにと思う。
私も、出来るならば、舟を手に入れて沖に出たい。
だが、出ても、どうしようもない。
私は漁をする術を知らない。
父は祖父から、その術を叩き込まれていた。
その術を私は誰からも、教わることがなかった。
私が舟に乗れる年頃になった頃、祖父の舟は海の上になかった。
漁師としての祖父は、既に死んでいた。
田子の浦のヘドロによって、殺されていた。
人生を殺された祖父は、岸から海を見つめながら暮らし、しばらくして肉体も朽ちた。
その翌日から、祖父は舟に乗り、湾の奥で漁をしている。
いつもいつも、漁をしている。
肉体が死んで、魂になって、祖父は漁に戻れた。
父は、祖父の舟の横に自分の舟を並べて、ゆっくりと過ごしたかったのだろう。
父の言うところの「退屈で報われない生活」をしたかったのだろう。
「この湾も少しは綺麗になったよ。親父の知っている頃には遠く及ばないけれど、それでも、ほんの少しだけ魚も帰ってきている」などと語りかけたかったのだろう。
だが、父には舟がなかった。舟を持つ前に逝ってしまった。
今、父の魂は何処にいるのだろうか。留まるべき位置を得られずに、彼岸へ渡ったのだろうか。
祖父も、父も、哀れでならない。
私は、今日も祖父を眺め続ける。父の代わりに。
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