第21話 剱岳 (かつての投稿時テーマ 北陸)

 厳冬期の剱岳は人が立ち入れる所ではない。

 なのに、山屋は、一番厳しい季節の一番厳しい峰を目指して、分け入って行きやがる。

 山は、連中を容赦なくふるいにかけやがる。

 ふるいから落とされた事を自覚し、自らの判断で山を下りた奴は賢明だな。身の程を知っていると称えられるべきだ。

 身の程知らずの自惚れ屋だけが、頂を目指すことになる。その中で、幸運だった奴だけが頂を踏めて、そうでなかった奴は強制退去を命じられるわけだ。

 幸運と不運との分かれ目が何であるかは、俺らには到底理解できん。

 それを知り得るには、己が神にでもなるしかないわな。

 先輩は、剱岳の頂を望みながら、いつもこんな言葉を呟いていた。

「この山だけは、他とは違う。

 どれだけ綿密に準備をしても、厳しく心構えをしても、そんな事はこの山にだけは通じもしない。

 この山から帰ってくるのに必要なのは運だけだ」と言うのが先輩による剱岳評だった。

 先輩は、今、立山連峰の見える町でコーヒーショップを切り盛りしている。

 剱岳を攻めていた時に脚の腱を痛めて、それで山から退いた。

 本人によれば「脚一本だけですんだわけだから、幸運だった」とのことらしい。

 その冬も、年明けの挨拶を兼ねて、俺は先輩の店に立ち寄った。

 正月に根を詰めて働いて稼いだ金を使って、今年の冬も剱岳を目指す俺に対して、先輩は特別に美味いコーヒーを立ててくれた。

「毎年言うことだけれど、兎に角、謙虚になれよ。要所々々での、感謝と挨拶を忘れるな。

 それと、山入らずの日をちゃんと避けろ。

 いいか、年寄りの言うことは聞いておくもんだぞ」

 といつもの言葉も添えてくれた。

 俺は、素直に頷いてみせる。

 先輩の言葉を疎かにできない事は分かっている。

 疎かに出来ない理由もある。

 先輩が片脚を山に持って行かれた日、俺も一緒に居た。

 吹雪にまかれて進退窮まり、ビバークして三日三晩を過ごした時に、俺たちは山の神さんの荒ぶる気配を感じたのだ。地震でもないのに雪洞が揺さぶれ、頑丈に固めた筈の天井が剥がれ落ちてきた。身を竦めて、寄り添って、怯え続ける俺達の耳に声が届いた。

「お前たちは運が悪い。

 今の私は機嫌が悪い。命の一つも二つも貰いたい位に機嫌が悪い。

 お前たちには罪はないし、恨みもない。

 ただ、私の機嫌が悪いだけだった。仕方がないと諦めて。

 そうは言っても、お前たちは珍しく行儀が良い。その辺りは気に入っているから……まぁ、脚の一本でもということですまそうか。

 朝になったら、早々に立ち去れ」

 それは神々しくはあっても、淡々とした無機質な声だった。

 翌朝は奇跡の様な晴天だった。登頂を断念した俺たちは、無事に下山を果たした。

 無事と引き換えに、先輩は山を止める事になった。

 そんな事があっても、なお、俺は山を止められないでいる。懲りない馬鹿野郎だと自覚はしている

 そんな俺のことを、先輩は目を細めながら見ている。

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