47 風の人
頬を撫でる風が少し柔らかさを覚えた頃、俺はぽかぽかとする日差しを求めて中庭で昼食をとる。
直音さんの部屋の片付けも無事に終わり、徐々に日常を取り戻したこの頃。そろそろ厚いコートのお役もご免になる。代わりに、こういう場所にいると眠気に誘われてしまいそうだ。
「ふあ…………」
早速欠伸に負ける。眠るなと暗示をかけ、瞼を閉じてから勢いよく開いてどうにか眠気を払おうとした。
時間が経つにつれてエヤとミケの騒がしさも戻ってきていた。だから余計に、眠い、けど……。
また睡魔に襲われかけた俺は、斜めになった顔をハッと上げる。
もうすぐ昼休憩も終わるから、午後の仕事に備えて目を覚まさないと。
……でもやっぱ、心地良い空気には勝てなくてもいいかなぁと思わなくもないし。
空を見上げて瞼を閉じかけたその時、左の髪の毛がふわりと風を受けた気がした。
「あら、まぁ。こんな場所で居眠り? 不用心ねぇ」
少しの違和感に気づく前に、左耳に突如として気品のある声が飛び込んでくる。
「……えっ!?」
誰もいなかったはずの隣を見れば、そこにはいつの間にか現れたショートカットの見目麗しい高潔な風貌がある。
「樫野至くん。久しぶりね」
長い足を組み、重ね合わせた両手を膝の頂点に乗せているその人は、俺と目が合うと笑うこともなく涼しい目を細めた。
「…………えっ。マーフィー……さん……?」
何が起きたのかまだ飲み込み切れていなかったが、目の前の人が誰だかは分かる。
忘れようもない。半年ほど前に俺にとんでもないことを依頼してきた張本人だ。
「相変わらず、気の抜けた顔をしているね」
マーフィーはスッと通った鼻先を逸らして近くの道を通る車椅子に乗った患者さんと彼に寄り添う看護士さんを見やった。
気の抜けた顔。相変わらず遠慮のないことを言ってくるものだ。
「えっと…………突然、どうしたんですか? マーフィーさん」
シルクのようなワンピースを着ているマーフィーは、この場所に馴染んでいるとは言えなかった。おまけにその人間離れした美しさだけは誰もが納得するものだから、なんだか余計に目立ってしまっている気がする。
しかしマーフィーはそんなこと気にしていないようで、絵画のように見事にカールさせた髪を撫で、息を吐いて腕を組んだ。
「どうしたも何も、用事なんて一つしかないでしょう」
「…………え?」
「あなたと私の共通点はたった一つ」
「…………エヤとミケ?」
「そう」
「つまり……?」
「…………………………」
「えっ……!? もしかして……!」
沈黙を貫くマーフィーの横顔。そこに向かって興奮気味に声を出すと、マーフィーはうるさそうに眉間に皺を寄せた。
「修行……! 合格ですか……!?」
「合格っていう言葉は相応しくないんだけど……。でも、まぁそう。修行は終わり」
マーフィーは組んでいた左手を上げ、狭めていた手を開いて俺の推測に同調した。
「本当ですか……っ!? ふ、二人……! 修行が認められたんですかっ!?」
「そうだと言っているでしょう。私が冗談を言うように見える?」
「……あ、いえ。見えません」
初対面の時はそう思っていたけど、その時の経験を経て今は全くそんなことは思わない。
…………ということは。本当に、修行は終わるんだ。
「ありがとうございます……! マーフィーさん!!」
ふつふつと湧き上がる興奮に任せて思わずそのまま頭を下げる。するとマーフィーは怪訝な表情をしたまま俺をじっくりと観察してきた。
「どうしてあなたがお礼を言うの?」
「えっだって……」
マーフィーが心底意味が分からないといったような顔をしているので、俺は少し恥ずかしくなる。だけど羞恥にもかかわらず笑みを描こうとする口でこう伝えた。
「二人の努力が、認められたってことですから……!」
自分でも不思議なほどに勝手に溢れ出てくる嬉しい気持ち。多分、表情にすべて出てしまっていたと思う。
マーフィーは腕を組んだまま、しかめていた表情を元の彫刻に戻して瞬きをした。
「そうね。確かにそう。あなたとの交流を通じて、天使と悪魔の素質が開花した。エヤは人間の幸せの数を、そしてミケも悪魔の価値をようやく受け入れることができた。まさか、あなたが二人に教えてくれるなんてね」
「いや──俺はただ、なにも──」
「あなたがあそこまで深い愛の持ち主だとは知らなかった。いいえもしかしたら知っていたのかも。最初から。あの橋で会った時から──とにかく、二人に伝えてくれる? 三日後に迎えに来るから」
「──はい。それは──分かりました。早く伝えてあげないとですね……!」
「それじゃ、よろしくね」
俺が頷いたのを見て、マーフィーは立ち上がるとともに姿を消した。
あんなに存在感のある人なのに、空気に溶けていくように消えていくものだからあまりにも自然にその場からいなくなる。突然姿を消してもなんだか幻だったようで、逆にそれがこの世界に馴染んで見えた。
マーフィーが消えた余韻を目で追いながら、まだ止まない喜びを想う。
天使のエヤと悪魔のミケ。
二人の念願が、ようやく叶う。
*
マーフィーからの吉報を受け、俺は残業することもなく急いで家に帰った。
出迎えてくれたエヤは、彼女に負けないくらいに笑っていた俺の機嫌の良い顔に首を傾げ、漫画を読んでいたミケはぽかんと口を開けた。
「どうしただすか? カシノ。ご機嫌だす」
「なんかこわいね」
二人がこそこそと話しているところに向かうと、俺を見るなり二人は口を閉じた。
改まって正座する俺を前に、二人は戸惑いながらも同じように足を畳んだ。
「カシノ……?」
エヤが不安そうな声を出す。
無邪気な眼差しでこちらを見る二人を順に見て、俺はすぅっと勿体ぶって息を吸い込んだ。
二人に緊張が走ったのが分かった。
「今日、マーフィーに会ったんだ」
思いがけないことだったのか、二人は同時に声を出して固まった。
「…………おめでとう。二人とも、修行は終わりだよ」
「…………え?」
エヤとミケは一度目を見合わせてから、答えを求めるようにまた俺を見る。
「二人の努力が認められたんだ。天界は、二人のことを待っているよ」
ぱちぱちと瞬きをする二人。
あんまり抑揚をつけたり感情的になったりして伝えるよりも冷静にしっかりと伝えた方がいいかなと思ったけど、ちょっと淡白だったかな。
でも本人たちよりも興奮して話すのはどうかなって思うし……。
しかしそれにしてもあっさりすぎたかな?
二人の静かすぎる落ち着いた反応を見て、俺は折角の二人の晴れ舞台を濁してしまったような気になって不安になる。
「修行、終わり、だすか……?」
だけど次第に実感が湧いてきたのか、エヤの放心気味の声がこぼれていく。
「ああ。そうだよ。二人とも、天界に帰れるよ」
「天界に……」
ミケもぽつりと呟く。
「……嬉しくないの?」
それでもやっぱり静かな二人に対して、俺は控えめに尋ねてみた。
すると二人は黙って首を横に振る。
「嬉しいだす。嬉しいだす、けど……」
「けど?」
エヤはぐっとスカートを両手で握りしめた。
「…………イタル、一人になっちゃう」
ミケはエヤの手元をちらりと見た後で顔を上げて真っ直ぐに俺を見る。
「ノト、も、もういない……のに……」
小さくなる声と共に下がっていく顔。二人は唇を噛み締め、微かに悲しそうな顔をしてしゅんと肩を落とす。
「……大丈夫。ありがとう、二人とも」
二人の肩に触れると、同時に顔を上げた二人は少し泣きそうな顔をしていた。
精一杯に俺のことを考えてくれているのがよく分かって、俺は胸がぎゅうっと柔い力で握られたような感覚を覚える。
「はは……。たしかに、寂しいけど……。でも、それ以上に嬉しいんだ」
「…………嬉しい?」
「ああ。二人がこれまでこの世界で頑張ってきた努力が実ったんだ。認められたんだよ、天界に。それが何よりも嬉しい。二人を見ればそんなの当然だろって思うけどさ。でも、マーフィーをはじめとした立派な人たちがさ、ようやくそれに気づいてくれた。誇らしいし、ほら見たことかって感じで。……すごく、嬉しいんだよ」
「カシノ……」
エヤの大きくて澄んだ瞳が揺れた。ミケもぐぐぐ、と眉間に力を入れて、どうにか涙腺を制御しているように見える。
「おめでとう、二人とも。こんなこと言っていいのか分からないけど……でも、本当、よく頑張ったよ、ずっとずっと頑張ってた。すごいよ、二人は」
「イタル…………」
顔に入れていた力が抜けたのか、ミケの瞳も潤んでいく。
「今日は御馳走を作るからな」
「……うんっ!」
エヤは大きく頷くと同時に顔を丸くして笑う。こぼれた涙をすぐに拭ったので、見なかったことにしてあげよう。
「ありがとうカシノ……! ごちそう、楽しみだす……っ!」
立ち上がったエヤは、そのまま倒れ込むようにして俺に抱き着いてきた。勢いよく首に手を伸ばすから、一瞬首が絞まりかける。
「ははは……。うん。たくさん作るからな」
「んふふふふ。エヤは幸せ者だす」
エヤの頭を撫でると、座ったままのミケと目が合った。ミケは泣くのを堪えていたようで、ようやく涙が引っ込んだ瞳でこちらを見上げていた。
なんとなくもう片方の手を伸ばすと、それを合図にミケもタッと立ち上がる。
「イタル、甘やかしすぎ」
そう言いながらきゅっと飛び込んでくるミケ。
「んふふふ。ミケも嬉しいくせにっ。カシノの料理、いつも楽しみにしてるだすでしょ」
「……そんなことない」
ミケは俺の服を掴みながら納得できないような声で答えた。
「んふふふ。じゃあエヤがぜんぶ食べちゃうだすからね」
「…………イタル、いまの嘘だから。エヤに全部あげないで」
エヤの宣言に不安を覚えたのか、ミケは眉尻を下げて俺を見上げる。
「二人分のお祝いだから、心配すんな」
「……うん」
「んひひひっ」
ほっとしたのか、ミケはそのまま俺の足に座り込んで胸元にこてんと頭を預けてきた。
ミケのそんな様子が可笑しかったのだろう。エヤの笑い声はいつにも増して愉快だった。
エヤは俺の腕を掴んだまま、ミケに視線を合わせてからかうようにちょっかいを出し続けた。
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