李太后  母以子貴慶厚禮崇

孝武帝こうぶていの母、李陵容りりょうようは微賤の生まれであった。はじめ簡文帝かんぶんが會稽王となったときに三人の子をもうけたのだが、みな夭折。その後李陵容との間に孝武帝、司馬道子しばどうし、のちに琅邪ろうや王氏の嫡流である王嘏おうかに嫁ぐ鄱陽はんよう長公主を生んだ。


孝武帝が即位したとき淑妃に昇格させられた。378 年に貴人となった。384 年には夫人に、387 年には皇太妃として、皇太后と同等の扱いとなった。


394 年、司馬道子が言う。

「母は子が貴顕になることで、改めてその待遇が厚くなるものでございます。伏して思いまするに、皇太妃の純德は実にまばゆく、その聖徴は各所にも現れてございます。にもかかわらず皇太妃は未だ正当に賞賛されたとは言いがたい状態。そこでここに改めて尊号を旧典に基づき、献じすべきと愚考致します」

そこで 8 月に劉耽りゅうしんを派遣、皇太后に位を引き上げられた。安帝あんていが即位すると太皇太后とされた。


400 年に含章殿がんしょうでんにて死亡。修平陵しゅうへいりょうに葬られ、神主は宣太后廟に祀られた。




孝武文李太后諱陵容,本出微賤。始簡文帝為會稽王,有三子,俱夭。生孝武帝及會稽文孝王、鄱陽長公主。及孝武帝初即位,尊為淑妃。太元三年,進為貴人。九年,又進為夫人。十二年,加為皇太妃,儀服一同太后。十九年,會稽王道子啟:「母以子貴,慶厚禮崇。伏惟皇太妃純德光大,休祐攸鍾,啟嘉祚於聖明,嗣徽音于上列。雖幽顯同謀,而稱謂未盡,非所以仰述聖心,允答天人。宜崇正名號,詳案舊典。」八月辛巳,帝臨軒,遣兼太保劉耽尊為皇太后,稱崇訓宮。安帝即位,尊為太皇太后。隆安四年,崩于含章殿。葬修平陵,神主祔于宣太后廟。


(晋書32-3)




礼志で「庶出の家主は母でなく正室をよく祀れ」って話が散々出てるのに、ここでは平然と皇太后に祭り上げてる。うーんこの。



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