何皇后  何后慟哭

穆帝皇后、何法倪かほうげい廬江ろこう郡灊かく県の人だ。父は何準かじゅん。名家と皇室とのつながりのため皇后に選ばれた。ただし穆帝は 19 歳で死亡、子をなすことは叶わなかった。つまりちょ氏と同じく、その人生の大半を皇太后として過ごしたことになる。


 403 年に桓玄かんげんが簒奪をなし、何氏を司徒府に移すことになった。その途上で歴代の晋帝を祀る太廟に差し掛かると、何氏は立ち止まり慟哭し、道行くひともまた悲しみを覚えた。このふるまいに桓玄は怒り、言う。


「天下はより徳望あるものによって統治されるが常なる理である! どこに何氏の小娘が評価を挟むいわれがある!」


そうして何氏を零陵れいりょう縣君に降格させた。安帝とともに西の巴陵に至った。


劉裕りゅうゆうがクーデターを起こすと、桓玄の参謀であった殷仲文いんちゅうぶんが桓玄を見切り、何氏を奉戴して建康けんこうに戻る。そして命じる。


「いま戦乱がしばしば起き、民は飢えに苦しんでいる。しかし陛下らの食事は多く、豪華。これでは民に倹約せよということにどれだけの説得力があろうか。その量を節制し、華美とならないようにせよ」


何氏は遠方より帰還したことを穆帝の陵墓にある廟に報告したいと申し出たのだが、有司は未だ戦乱が収まっていないことを理由に却下した。


404 年に死亡、66 歳、皇后皇太后の位にあったこと 48 年であった。




穆章何皇后諱法倪,廬江灊人也。父準。以名家膺選。桓玄篡位,移后入司徒府。路經太廟,后停輿慟哭,哀感路人。玄聞而怒曰:「天下禪代常理,何預何氏女子事耶!」乃降后為零陵縣君。與安帝俱西,至巴陵。及劉裕建義,殷仲文奉后還京都,下令曰:「戎車屢警,黎元阻饑。而膳御豐靡,豈與百姓同其儉約。減損供給,勿令游過。」后時以遠還,欲奉拜陵廟。有司以寇難未平,奏停。元興三年崩,年六十六,在位凡四十八年。


(晋書32-2)




天下禪代常理、と、あえて「皇帝に徳がある」ことは避けて叫ぶ桓玄さんと来たら。マジでこいつの行動徳ねえなあ。「何氏の小娘」とか言うんだったらそこは鷹揚に流すところでしょうに。ただまぁこのへんは普通にブック突っ込んできてもおかしくないエピソードなので、話半分に。


殷仲文のエピソードは、どう拾ったものか。そのまま読むと殷仲文が独断で言い出した(劉裕に尻尾ふるための点数稼ぎとして)ようにも見えるんですが、一方で司馬休之しばきゅうしが上奏していた「陛下四時膳御,觸事縣空,宮省供奉,十不一在」はここにかかってくるのかなあ。そうすると劉裕の意向も混じってる? まあどっちとも言えませんわね。ここに確定的な何かを言えるのは物語だけだ。

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