晋書32 后妃伝下

褚皇后  太后臨朝

康獻こうけんちょ皇后。名は褚蒜子ちょれいしといい、河南かなん陽翟ようてき県のひとだ。父は褚裒ちょぼう、外戚伝に立伝されている。


褚氏は聡明博識、その誉れある家門も手伝い、はやくに琅邪ろうや王の司馬岳しばがく、すなわち後の康帝こうていに嫁いだ。成帝せいていの夭折による康帝の即位を受け皇后となり、母のしゃ氏を尋陽じんよう鄉君に封じた。さらに康帝の早世を経て穆帝ぼくていが即位すると、若くして皇太后に。


簡文帝かんぶんていが即位したときには更に立場が重んぜられ、崇德すうとく太后と呼称された。しかしまもなく簡文帝も死亡。孝武帝こうぶていが未だ幼かったため、臨朝し摂政した。


孝武帝が元服すると、詔勅にいう。

「いま皇帝が后を取り、冠を得た。かくて遠近に心を砕き、万機を親しく見ることが叶うに至った。ここに改めてわが治世が始まったのである。よって全権がわがもとに帰すること、旧典のごときとする」

こうして褚氏は再び崇德太后と呼ばれるようになった。


384 年に顯陽殿けんようでんにて死亡、61 歳であった。皇后、皇太后の地位にあることは、実に 40 年にも及んだ。




康獻褚皇后諱蒜子,河南陽翟人也。父裒,見『外戚傳』。后聰明有器識,少以名家入為琅邪王妃。及康帝即位,立為皇后,封母謝氏為尋陽鄉君。及穆帝即位,尊后曰皇太后。簡文帝即位,尊后為崇德太后。及帝崩,孝武帝幼沖,太后臨朝。帝既冠,乃詔曰:「皇帝婚冠禮備,遐邇宅心,宜當陽親覽,緝熙惟始。今歸政事,率由舊典。」於是復稱崇德太后。太元九年,崩于顯陽殿,年六十一,在位凡四十年。


(晋書32-1)




東晋中期、つまりギチギチに貴族たちがパワーバランスのせめぎあいを決めている中に桓温かんおんが台頭していくという地獄みたいな環境に、よりによって皇帝たちが幼くてまともに政務を取れないからのちの簡文帝、こと司馬昱しばいくさんとその政争のど真ん中にい続けなければならなかったひとです。言い換えると、成帝以後どんどん皇帝権力がカスになっていき、とどめに孝武帝みたいななにひとつわかってねえクソガキの即位を見届けなければならなかったひと。


ここに載る詔勅を読んでも、礼志を読んでみても、孝武帝って間違いなく褚氏のこと頭押さえつけてくるクソババアって思ってましたからね。しかも我慢を知らない。なら露骨に嫌悪も向けてきていたことでしょう。


ようやく政務から離れることがかなった褚氏が感じたのは開放感だったんでしょうか、虚脱感、あるいは絶望だったんでしょうか。もちろん後者であればあるほど好みです。

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