礼志23 蔣子文祠

劉裕りゅうゆうの治世下、国家の序列に含まれない地元の神々の祭祀が禁じられ、蔣子文しょうしぶんの祠以下はみな破壊された。


しかし孝武帝こうぶていが立つと蔣山祠しょうざんしは修復され、他の山や川にある祠も修繕された。


それどころか、明帝めいてい九州廟きゅうしゅうびょう雞籠山けいろうざんに立て、各地の神の観覧会状態にした。


蔣子文は宋の時代のうちに爵位が加えられていく。最終的には相國、大都督、中外諸軍事にまでなり、殊禮を加えられ(=皇帝ではないけど皇帝レベルで崇められる、の意)、鍾山王とされた。


また別口の神、蘇侯そこうが驃騎大將軍とされた。それ以外の地方神にもみな爵秩が加えられた。




宋武帝永初二年,普禁淫祀。由是蔣子文祠以下,普皆毀絕。孝武孝建初,更修起蔣山祠,所在山川,漸皆修復。明帝立九州廟於雞籠山,大聚羣神。蔣侯宋代稍加爵,位至相國、大都督、中外諸軍事,加殊禮,鍾山王。蘇侯驃騎大將軍。四方諸神,咸加爵秩。


宋の武帝の永初二年、普く淫祀を禁ず。是の由是にて蔣子文の祠以下、普く皆な毀絕さる。孝武の孝建の初、更に蔣山祠は修起され、在せる所の山川は漸く皆な修復さる。明帝は九州廟を雞籠山に立て、大いに羣神を聚む。蔣侯は宋代に稍いよ爵を加えられ、位は相國、大都督、中外諸軍事に至り、殊禮を加えられ、鍾山王たる。蘇侯は驃騎大將軍たる。四方の諸神、咸な爵秩を加わる。


(宋書17-1)



蔣子文

蔣歆という後漢末の人物が神になったらしい。お酒大好きなフリーダムなオッサンだったそうなのだが、反乱を鎮圧するために建康の北東にある鍾山のふもとで戦い、戦死。以後なぜか三国時代に神様としての存在感を拡大させていった。

これはどういう風に見るべきなのかな。アンチ中原文化の象徴という印象はある。なのでこの信仰を抑え込むことは晋や宋の権威にも繋がるんだけど、結局元地信仰は根強く、だんだんと他ならぬ宮廷人が地元信仰にも取り込まれていった、という感じなのかしら。


この辺は吉田ナツ「淫祀と古小説」(九州中國學會報 1965年)が詳しかったんですよね、確か。いま閲覧できないので、閲覧できるようになったらリンク張りますが。


上掲論文によると、司馬道子が蔣子文信仰を東晋宮中に持ち込んだようらしいのだ。そしてその祭祀がまた破戒的だったもんだから、宮中の風紀は乱れた。もしかしたら劉裕はそういうのを嫌って締め出しにかかったのかもしれない。


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