礼志19 禁私碑建立令

晋による天下統一の直前、司馬炎しばえん治世下の 278 年。詔勅が発布される。

「ここに見られる獸を模した石碑に刻まれた内容は国とは無関係なところで勝手に評価をなし、虛偽の評価を垂れ流すことであたら財貨を損ね、それでいて正当に評価されるべき人間の評価をも損ねることにつながる、最大のリュウになると言ってもよい。こうした石碑の建立を一律に禁じる。興長し、財を傷つけ人を害すこと此よりも大なる莫し。禁を破ったものは収監する。もっとも大赦等においては赦免される程度ではあるが。とはいえ石碑については例外なく破壊されるものと心せよ」


こうして個人による私人の功績を顕彰する石碑の作成が禁じられたのだが、317 年、司馬睿が皇帝に即位したところで、有司よりの奏上があった。

顧榮こえい様より賜った恩につきましては、どうしても石碑として残したく思うのです。お許し願えませんでしょうか」


そこで特例として立てることが許されたのだが、ひとたび禁が緩んだことにより、他のものもルールを破り、われもわれもと石碑を立てるようになってしまった。


そこでと。義熙ぎき年間、すなわち劉裕りゅうゆうが勢力を伸ばしていた頃、裴松之はいしょうしにより再び、石碑の私的建立を禁じるべく提唱があった。このときの禁令はりょう初年にもいまだ続いている。




晉武帝咸寧四年,又詔曰:「此石獸碑表,既私褒美,興長虛偽,傷財害人,莫大於此。一禁斷之。其犯者雖會赦令,皆當毀壞。」至元帝太興元年,有司奏:「故驃騎府主簿故恩營葬舊君顧榮,求立碑。」詔特聽立。自是後,禁又漸頹。大臣長吏,人皆私立。義熙中,尚書祠部郎中裴松之又議禁斷,於是至今。


晉の武帝の咸寧四年、又た詔して曰く:「此の石獸碑の表は既に私に褒美し、虛偽を興長し、財を傷つけ人を害すこと此よりも大なる莫し。一に之を禁斷せん。其を犯せる者は赦令に會すと雖ど、皆な當に毀壞せん」と。元帝の太興元年に至り、有司は奏ずらく:「故き驃騎府主簿にして故き恩を舊君の顧榮に營葬せん、立碑を求む」と。詔じ特に立つるを聽す。是より後、禁は又た漸頹す。大臣長吏は皆な人が私に立つ。義熙中、尚書祠部郎中の裴松之は又た禁斷すべく議し、是に於いて今に至る。


(宋書15-5)




これは比較的わかりやすいですね。石碑による顕彰とは国家事業であるべき、すなわち国を、皇帝を中心に据えた顕彰として残されるべき。けど東晋は皇帝独裁でなく、貴族合議の性格がかなり強かった。そこで石碑県立についても皇帝のもとに統制が取れなかった。


これを、裴松之が切り替えるように訴えた。それは東晋帝のためか、「次に現れる、誰か」のためか。


宋書裴松之伝読んでも、404 年〜416 年の間、とまでしか絞れないんですよね。劉毅りゅうきやら司馬休之しばきゅうし倒したあとなら劉裕想定を断言できるんですが。

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