礼志15 褚氏葬礼

384 年、344 年の康帝こうてい死亡以来朝廷を支え続けてきたちょ皇太后が死亡した。ここでどのような葬儀をなすべきかが議論される。というのも孝武帝こうぶていに取り褚皇太后は「いとこの后」に過ぎいのである。ならば皇太后の葬礼を取るべきかどうかで賛否が起こったのだ。



すると徐藻じょそうが提唱した。


「父に孝行するのは、君主に仕えるのと同じくせよ、と申します。また禮記にもございます、父の歩んだ道に付き添った者はまた母の道を進んだ、と。ならば君主の歩んだ道に寄り添ったお方は后の道を歩まれた、と申すべきでございましょう。ならば皇太后陛下には、母に孝行するが如き儀礼にて葬るべきでありましょう。


においては逆祀を批判することで、尊ぶべきが誰であるかを明らかにした、と申します。いま、陛下はおん自ら康帝、穆帝ぼくてい哀帝あいてい、哀帝皇后・王穆之おうぼくし様を深く奉られること、天帝と等しくなされておられます。君主としてかの方々への敬慕の念をお示しになっておられるのであれば、どこにこの方々の親とも言うべきお方をねんごろに祀らぬ理由がございましょうか。ならば、国母への哀悼に相応しき服喪をなすべきでございましょう」


このため孝武帝は朞服を採用した。




晉孝武太元九年,崇德太后褚氏崩。后於帝為從嫂,或疑其服。太學博士徐藻議:「資父事君而敬同。又禮傳,其夫屬乎父道者,妻皆母道也。則夫屬君道,妻亦后道矣。服后宜以資母之義。魯譏逆祀,以明尊尊。今上躬奉康、穆、哀皇及靖后之祀,致敬同於所天。豈可敬之以君道,而服廢於本親。謂應服齊衰朞。」於是帝制朞服。


晉の孝武の太元九年、崇德太后褚氏が崩ず。后は帝にては從嫂為りて、或いた其に服すを疑う。太學博士の徐藻は議すらく:「父に資し君に事うに敬なるは同じき。又た禮傳にては其の父道に夫屬せる者、妻は皆な母道なり、と。則ち君道に夫屬せるは、妻も亦た后道たらん。后に服し宜しく資母の義を以てすべし。魯は逆祀を譏し、以て尊を尊ぶを明らかとす。今上躬ら康、穆、哀皇、及び靖后の祀を奉じ、敬を致すこと天なる所と同じくすべし。豈に之を敬するに君道を以てし、而して服を本親に廢すべきか。謂えらく、應に齊に服し朞に衰すべし、と」と。是に於いて帝は朞服を制す。


(宋書15-1)



魯譏逆祀は春秋公羊伝の文公二年でした。「其逆祀奈何。先禰而後祖也。」……うーん、文公が先祖たちよりも先に父の僖公を祀ってしまったってことなのかな。ともあれ、これを言い出したのが例によって孝武帝くさいのが、こう。「褚氏は余の母ではないぞ、だのになぜ余が大いに祀らねばならんのだ!」とか言い出してそう。というか司馬曜についてはもうそういう目でしか見れる気がしねーです。

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