礼志14 請修建講學奏 下

「そして 394 年 11 月 17 日に詔勅を賜り、兗州えんしゅう郡にて孔子こうし廟の修復が開始されました。ここで亡き謝石しゃせき様よりささやかなる援助を家財より供出頂け、また亡きしょう王の司馬恬しばてん様よりも魯縣令より援助を得られるよう指令書を賜りましたが、お二方の薨去により、事業は中途にて頓挫しております。


陛下はぎょうのごとき文思の美を体現なされ、また孔子のごとく善を誘わんがために勤め上げておられます。そして学問の荒廃をあわれまれ、よき教えが天下に満ちていないことをお嘆きであらせられます。私はいま、改めて兗州刺史のもとに出向き、いくつかの孔子廟再建を成し遂げられるよう掛け合いたく愚考しております。そして各廟には六經を備えさせ、学校および宿舎を設け、後進を集めて学ばせ、彼らが自ずと学問の道に進めるよう導き、切磋琢磨させてやりたいのです。


仁義を抱いて遠方の征伐に向かい、その地にて道德をお示しになれば、どうして招きに応じずにおりましょう、どうして懐柔に服さずにおりましょう。軍事討伐よりもかかる経費や手間は遥かに少ないのに、陛下の威徳が大いに広まろうというものではございませんか。


臣がはるか故郷より陛下のもとに赴いて八年間、先祖の霊廟に参拝もまともにせず学びを深めておりましたが、故郷の学問がいまだ深まっておらぬことを思い、日夜気を揉み通しでございました。しかるにこたび、何澹之かたんし様が青州せいしゅうにご出向なされると伺いましたので、何澹之様に従って帰郷したく思っております。陛下のお側におれるという栄誉を頂いておきながら、なおも鄙地を恋しがってしまうこの身ではございますが、どうかこの愚臣めの願い、お聞き届けくださいませんでしょうか」


この上奏もまともに取り扱われなかった。



なお劉裕りゅうゆうが即位すると太学の増設をなすよう詔勅を下したが、増設の実現を目の当たりとするよりも前に、劉裕は死亡した。




至十四年十一月十七日,奉被明詔,采臣鄙議,敕下兗州魯郡,準舊營飾。故尚書令謝石令臣所須列上,又出家布,薄助興立。故鎮北將軍譙王恬版臣行北魯縣令,賜許供遣。二臣薨徂,成規不遂。陛下體唐堯文思之美,訪宣尼善誘之勤,矜荒餘之凋昧,愍聲教之未浹。愚謂可重符兗州刺史,遂成舊廟,蠲復數戶,以供掃灑。并賜給六經,講立庠序,延請宿學,廣集後進,使油然入道,發剖琢之功。運仁義以征伐,敷道德以服遠,何招而不懷,何柔而不從。所為者微,所弘甚大。臣自致身輦轂,于今八稔,違親轉積,夙夜匪寧。振武將軍何澹之今 震扞三齊,臣當隨反。裴回天邑,感戀罔極。乞臣表付外參議。」又不見省。 宋高祖受命,詔有司立學,未就而崩。


十四年十一月十七日に至りて明詔を奉被し、臣が鄙議を采り、敕は兗州魯郡に下され、舊に準いて營飾さる。故き尚書令の謝石は臣に令し須く上に列せる所、又た家布を出だし、薄に興立を助く。故の鎮北將軍の譙王の恬は臣を版じ北の魯縣令に行き、許供を賜り遣る。二臣の薨徂し、成規は遂げられず。陛下は唐堯文思の美を體じ、宣尼善誘の勤を訪じ、荒餘の凋昧を矜り、聲教の未浹なるを愍れむ。愚は兗州刺史に符を重ね、遂に舊廟を成し、數戶を蠲復し、以て掃灑に供ずべく謂ゆ。并せて六經を賜給し、庠序を講立し、宿學を延請し、廣く後進を集め、油然と道に入らしめ、剖琢の功を發すべし。仁義を運びて以て征伐し、道德を敷め以て遠きを服すに、何ぞ招じ懷かざるか、何ぞ柔じて從わざるか。為す所の者微なれば、弘む所甚大ならん。臣は自ら身を致し輦轂し、今までに八稔し、親に違いて轉積し、夙夜寧んぜるに匪ず。振武將軍の何澹之は今、三齊に震扞し、臣は當に隨反せんとす。天邑を裴回せば、罔極を感戀す。乞う、臣が表を外の參議に付さんことを」と。又た省らるを見ず。

宋の高祖の受命せるに、有司に詔じ學を立てんとせるも、未だ就かざるに崩ず。


(宋書14-5)

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