礼志8  陳留王礼

387 年、いわゆる二王三恪の継承者、陳留王ちんりゅうおうの席次が皇太子と比べて上か下かが議論された。


ここで庾弘之ゆこうしを筆頭に、みな答えている。

「陳留王は、この国において最も尊重されるべき賓客です。確かに皇太子は國の次代を担われる、いわば皇帝の写し身にも等しきお方。とは言え陛下ご健在のいまは人臣に過ぎません。ならば陳留王の席次は皇太子よりも上であるべきです」



これより以前の 350 年ころ、穆帝ぼくてい治世下でも陳留王の扱いについて議論されたことがあった。当世の陳留王であった曹勱そうばんは病を称して陳留王家、すなわち魏の歴代皇帝の祭祀を執り行わずにいた。このため本人より解任が願い出られた。そこで禮に詳しいものを集め、解任について議論させる。


曹耽そうしんが言う。

「曹勱は祭主としての職責を全うできておりません。ならば春秋しゅんじゅうの大夫、韓無忌(=穆子ぼくし)が不治の病にかかったことを理由に家主の位を庶弟の韓起に譲ったこと、あるいはえい襄公じょうこうの息子、孟縶もうちょうが足の病のため祭祀ができないことを理由に公位を継承できなかったことに倣い、爵位を他者に移すべきであると考えます」


一方、王彪之おうひょうしが言う。

「二王三恪にて任ぜられる王位は軽々に廢立をすべきではない。記傳にて人君が病を理由に引退した例なぞなく、ならばそれは礼に違うとみなすべきである。なるほど、確かに孟縶、穆子は人君と呼ばれる立場ではあろう。しかし、その爵位の重さは陳留王に比べ、何と軽かろうか!」




太元十二年,議二王后與太子先後。博士庾弘之及尚書參議,並以為:「陳留,國之上賓。皇太子雖國之儲貳,猶在臣位,陳留王坐應在太子上。」陳留王勱表稱疾病積年,求放罷,詔禮官博士議之。博士曹耽云:「勱為祭主而無執祭之期,宜與穆子、孟摯事同。」王彪之云:「二王之後,不宜輕致廢立。記傳未見有已為君而疾病退罷者,當知古無此禮。孟縶、穆子是方應為君,非陳留之比。」


太元十二年、二王の后と太子との先後を議す。博士の庾弘之、及び尚書・參議は並べて以為えらく:「陳留、國の上賓なり。皇太子は國の儲貳なりと雖ど、猶お臣の位に在り、陳留王が坐は應に太子が上に在すべし」と。陳留王の勱は表し疾病を稱して積年、放罷を求まば、詔じて禮官博士に之を議せしむ。博士の曹耽は云えらく:「勱は祭主を為せど祭の期を執れる無く、宜しく穆子、孟摯が事と同じく與うべし」と。王彪之は云えらく:「二王の後、宜しく輕に廢立を致すべからず。記傳に未だ君為りて疾病にて退罷せる者已に有るを見ざれば、當に古に此の禮無きを知るべし。孟縶、穆子は是れ方に應に君為れど、陳留の比に非ず」と。


(晋書21-2)




二王三恪だけど、ここでは漢の祭祀を行う山陽公は問題にされてないんですね。ちょっと不思議。それにしても晋書とか宋書って陳留王が断片的にしか記載されてないから、ぜんぜん実態がわからないんですよね。ここでも 387 年の陳留王が曹勱なのか、その後の誰かなのかよくわかりませんし。


「前の王朝より正式な手続きを経て皇統を継承している」以上、先朝歴代帝を祀るべきと名目が存在しているのは当然のこと。ただ問題は、ここで「実際に祭祀がなされていない」、つまり魏の歴代帝をろくろく祀っていなくても構わない、と王彪之が言っちゃってること。どんだけただのお飾り名分になっちゃってんの?と、思わずにおれません。


あと例によって春秋まわり、特に穆子の特定がきつかった。一生懸命探しましたが自分では魯の叔孫豹に行ってしまいました。韓無忌のご指摘は、くらすあてね様によるものです。晋はさぁ……中行氏にも穆子がいてさぁ……!


今度から、探しものする時には始めっから中央研究院使おうと思いました(なみだめ)。

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