礼志7  皇太子拝礼

太元たいげん年間、尚書が臣下たちが皇太子に謁見するとき、いかなる儀礼、服装にて臨むべきかを検討させた。ここに車胤しゃいんが回答する。


「朝臣は朱衣をまとって帽子をかぶり、皇太子に拝礼する。その後皇太子が答拜をなす。このようにすると良い。礼を語る経典にこれらの内容は記載されておらぬが、西晋の時代、太傅の羊ようこが太子に慶賀の手紙を寄せたときにも、文面には「叩頭死罪」の文字を入れ、その不敬を詫びる文言が入っていた。拝礼→答拝の流れをなすべきは、この記述からも類推することが叶う。


また 325 年、明帝めいてい陛下が体調を崩され、急遽お子の成帝せいてい陛下を皇太子に立てねばならなくなった際にも同様の議論がなされていた。このときは卞壼べんこん様が、かんの時代には皇太子も臣と称していた以上、晋でも同じよう他の臣下とともに皇帝に拝謁すべき、とされた。ただしそのときになす格好は朱衣に冕冠である。惟施之天朝,宜褠幘而已。」


この意見には多くの賛同が寄せられた。




太元中,尚書符問王公已下見皇太子儀及所衣服。侍中領國子博士車胤議:「朝臣宜硃衣褠幘,拜敬,太子答拜。案經傳不見其文,故太傅羊祜箋慶太子,稱叩頭死罪,此則拜之證也。又太寧三年詔議其典,尚書卞壼謂宜稽則漢魏,闔朝同拜。其硃衣冠冕,惟施之天朝,宜褠幘而已。」朝議多同。


太元中、尚書は符して王公已下の皇太子に見ゆるの儀、及び衣服せる所を問う。侍中・領國子博士の車胤は議すらく:「朝臣は宜しく硃衣褠幘し、拜敬すべし。太子は答拜すべし。經傳を案ずるに其の文は見えざれど、故の太傅の羊祜の太子に箋慶せるに、叩頭死罪を稱す、此れ則ち拜の證なり。又た太寧三年の詔にて其の典を議ずに、尚書の卞壼は宜しく漢魏に稽則し、闔朝同拜すべしと謂う。其れ硃衣冠冕にして、惟うに之を天朝に施し、宜しく褠幘すべきのみ」と。朝議に同ず多し。


(晋書21-1)




惟施之天朝,宜褠幘而已。わかんにゃい。とりあえずテーマとしては「皇太子は臣下扱いなのか、臣下扱いであるならばそれは他の臣下と同列なのか、一段高くすべきなのか」が議論のキーのようで、臣下扱いだけど他の臣下より一段上げろ、が結論のような感じはする。ちなみにこの直前の上で卞壼の議論は載ってたんですが、羊祜のやつはありませんでした。とりあえず全文載せるね。


漢魏故事,皇太子稱臣。新禮以太子既以子為名,而又稱臣,臣子兼稱,於義不通,除太子稱臣之制。摯虞以為:「『孝經』'資于事父以事君',義兼臣子,則不嫌稱臣,宜定新禮皇太子稱臣如舊。」詔從之。


太寧三年三月戊辰,明帝立皇子衍為皇太子。癸巳,詔曰:「禮無生而貴者,故帝元子方之於士。而漢魏以來,尊崇儲貳,使官屬稱臣,朝臣咸拜,此甚無謂。吾昔在東宮,未及啟革。今衍幼沖之年,便臣先達,將令日習所見,謂之自然,此豈可以教之邪!主者其下公卿內外通議,使必允禮中。」尚書令卞壼議以為:「『周禮』王后太子不會,明禮同於君,皆所以重儲貳,異正嫡。苟奉之如君,不得不拜矣。太子若存謙沖,故宜答拜。臣以為皇太子之立,郊告天地,正位儲宮,豈得同之皇子揖讓而已。謂宜稽則漢魏,闔朝同拜。」從之。


太元中,尚書符問王公已下見皇太子儀及所衣服。侍中領國子博士車胤議:「朝臣宜硃衣褠幘,拜敬,太子答拜。案經傳不見其文,故太傅羊祜箋慶太子,稱叩頭死罪,此則拜之證也。又太寧三年詔議其典,尚書卞壼謂宜稽則漢魏,闔朝同拜。其硃衣冠冕,惟施之天朝,宜褠幘而已。」朝議多同。


礼志はこういう、ひとつのテーマに沿っての議論を系統立てて載っけてくれています。それはありがたいんですが羊祜の話がノー注釈なのがキツい。宋書にあったりするかなあ。なかった。

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