天文17 星変400年

400 年 1 月,月が牽牛けんぎゅうにて土星と並んだ。「えつで兵乱あり。女主に憂い」。2 月、彗星が奎宿けいしゅくをよぎった。長さは三丈。閣道かくどうから紫微垣しびえん西蕃せいはんに抜け、斗魁とかい三台さんだいから太微垣たいびえんの、帝座てざ端門たんもんと進んだ。「彗星が天子の居場所を払うのは天子が変わる兆し」とされた。三台を経て北斗に入るのも、また同じ占断である。6 月にはまた月が牽牛にて土星と並んだ。後日には哭星と並んだ。さらに 10 月には北河ほくがで木星を覆い隠した。「飢饉あり」。12 月、彗星が貫索かんさく天市てんし天津てんしんを貫いた。「貴臣が獄中で死に、內外では争乱あり。天津を貫くのは賊の跋扈を示し、王の道が天下に行き渡らなくなることを示す」とされた。12 月から翌 1 月まで、金星が斗宿としゅくにて昼間に見えた。「吳、越に災いあり」。3 月、多くの赤い流星が西から牽牛、虛宿きょしゅく危宿きしゅく天津てんしん閣道かくどうを経て、太微垣、紫微垣をともに貫いた。「星は庶民を表す。多くの民が西に流れる兆し。このとき天子の領分に乗り込んだのは、君主が弱く臣下が強いため、諸侯の兵が民衆を抑えきれないことを示す」とされた。7 月,大角星の光が五色に散った。「王者流散す」。同月、月が天關てんかんを犯した。「王者に憂い」。9 月、火星が少を犯し、しばらく居座った。「隠者が殺される」。10 月,月が東蕃とうはん次相じしょうを犯した。

400 年 5 月,孫恩そんおんが改めて會稽を襲撃、內史の謝琰しゃえんを殺した。高雅之こうがしらに討伐に向かわせた。7 月、孝武帝の母である李太皇太后が死亡した。10 月、孫恩らは高雅之を餘姚よようで大破。死者は十人のうち七、八人にも及んだ。

401 年 2 月,孫恩が句章くしょうを攻撃するも、劉裕によって撃退された。5 月,郡內史の袁山松えんさんしょうが迎撃に出るも戦死した。数千人の死者を出した。6 月,孫恩が京口けいこうに至るも、劉裕に撃退された。孫恩の軍が蒲洲に向かったため建康けんこうの內外が戒嚴体制となり、陣を結び守を固め、柵にて秦淮河しんわいが長江ちょうこうに流れ込む場所を遮断した。孫恩は別將を派遣して廣陵こうりょうを攻撃、三千人あまりを殺した。孫恩は逃亡して郁洲いくしゅうに拠点を置いた。劉裕が追撃をかけ、破った。9 月、桓玄かんげんが「孫恩討伐、手伝いますよ?www」と言い出して勝手に軍を動かしてきた。10 月、司馬元顯しばげんけんが水軍を編成、桓玄迎撃の準備に入った。402 年 1 月、桓玄が進軍を開始。同月、孫恩は臨海で逃れたところで兵糧も尽き、多くの餓死者を出していた。なので孫恩もまた海に身を投げ、死んだ。配架であった盧循ろじゅんが教団を継承、残党を集めて永嘉えいか晉安しんあんで略奪を働いた。2 月、安帝あんていは軍服姿で桓玄迎撃軍を見送った。しかし桓玄軍は姑孰こじゅくに到達すると歷陽れきよう守備軍を撃破、司馬尚之しばしょうしは殺され、劉牢之りゅうろうひは桓玄に降伏した。3 月に桓玄は建康を陥落させ、司馬元顯を殺し、司馬道子しばどうしを追放した。7 月に飢饉があり、人々が互いに食い合った。浙江せっこうの東で餓死や流亡するものは十のうち六〜七名。吳郡ごぐん吳興ごこうの戸籍は半減した。衣食を求めて西に向かう集団の数は一万を数えた。10 月,桓玄は配下将に劉軌を討たせ、劉軌を南燕に亡命させた。そして 404 年桓玄はついに簒奪、安帝はその身を尋陽に移された。



魏書。


400 年 3 月。宋書における 2 月の彗星がこの月に記録されている。奎宿とはすなわち伝説のイノシシ、封豨ほうきであるとされる。邪悪な気の発生を予言している。

実際のところ南国では、殷仲堪を打倒して桓玄が台頭し、さらには劉裕が跋扈した。「君德が示されず、人々よりの助けもない。しかも藩鎮が権勢をほしいままとし、人君が本来保持すべき大権を私物化している。はてさて、皇帝とはその意志のもとに天下に号令をかけるべき存在ではなかったのか?」

401 年 2 月、やはり宋書 3 月の天象を紹介している。ここで虛宿が靜かな人を、牽牛が農政を司るとされた。どちらも「負海の陽國」である。なにそれ?

ともあれ占断では「民が食い扶持や奉ずべき主を失い、ついには流亡する。しかし人君はこれを憂えず、結果自らが流亡の憂き目に遭う」とされた。

こののち、たしかに東晉では孫恩や桓玄による国難がもたらされ、三吳は度重なる兵役とともに飢饉を喰らい、西方に逃げたり死亡するものは一万以上を数えている。

しかも桓玄による簒奪で、司馬徳宗はいちど潯陽に追いやられた後、さらには江陵にさらわれまでした。




隆安四年正月乙亥,月犯填星,在牽牛。占曰:「吳、越有兵喪。女主憂。」二月己丑,有星孛于奎,長三丈,上至閣道紫宮西蕃,入斗魁,至三台、太微、帝座、端門。占曰:「彗拂天子廷閣,易主之象。」經三台,入北斗,占同上條。六月乙未,月又犯填星,在牽牛。辛酉,又犯哭星。十月,奄歲星在北河。占曰:「為飢。」十二月戊寅,有星孛于貫索、天市、天津。占曰:「貴臣獄死,內外有兵喪。天津為賊斷,王道天下不通。」十二月,太白在斗晝見,至五年正月乙卯。案占,災在吳、越。三月甲寅,流星赤色眾多,西行經牽牛、虛、危、天津、閣道,貫太微、紫宮。占曰:「星者庶民,類眾多西流之象。徑行天子庭,主弱臣強,諸侯兵不制。」七月癸亥,大角星散搖五色。占曰:「王者流散。」丁卯,月犯天關。占曰:「王者憂。」九月庚子,熒惑犯少微,又守之。占曰:「處士誅。」十月戊子,月犯東蕃次相。四年五月,孫恩復破會稽,殺內史謝琰。遣高雅之等討之。七月,太皇太后李氏崩。十月,妖賊大破高雅之於餘姚,死者十七八。五年二月,孫恩攻句章,高祖拒之。五月,吳郡內史袁山松出戰,為所殺,死者數千人。六月,孫恩至京口,高祖擊破之。恩軍蒲洲,於是內外戒嚴,營陣屯守,柵斷淮口。恩遣別將攻廣陵,殺三千餘人。恩遁據郁洲。是月,高祖又追破之。九月,桓玄表至,逆旨陵上。十月,司馬元顯大治水軍,將以伐玄。元興元年正月,桓玄東下。是月,孫恩在臨海,人眾餓死散亡,恩亦投水死。盧循自稱征虜將軍,領其餘眾,略有永嘉、晉安之地。二月,帝戎服遣西軍。丁卯,桓玄至姑孰,破歷陽,司馬尚之見殺,劉牢之降于玄。三月,玄剋京都,殺司馬元顯,放太傅道子。七月,大飢,人相食。浙江東餓死流亡十六七,吳郡、吳興戶口減半。又流奔而西者萬計。十月,桓玄遣將擊劉軌,破走奔青州。四年,玄遂篡位,遷帝尋陽。


三年三月,有星孛于奎,歷閣道,至紫微西蕃,入北斗魁,犯太陽守,循下台,轥南宮,履帝坐,遂由端門以出。奎是封豨,剝氣所由生也。又殷徐州之次,桓玄國焉,劉裕興焉。天象若曰:君德之不建,人之無援,且有權其列蕃,盜其名器之守而荐食之者矣;又將由其天步,席其帝庭,而出號施令焉。至四年二月甲寅,有大流星眾多西行,歷牛、虛、危,絕漢津,貫太微、紫微。虛、危主靜人,牽牛主農政,皆負海之陽國也。天象若曰:黎元喪其所食,失其所係命,卒至流亡矣;上不能恤,又將播遷以從之。其後晉人有孫恩之難,而桓玄踵之,三吳連兵荐饑,西奔死亡者萬計,竟篡晉主而流之尋陽,既又劫之以奔江陵。




魏書のこの辺が後世の増補だと思うとマジでつらい……いや、解釈の方法論についてはきっちり見ておくべきとは思うんだ、けど、結局のところそいつって別に「北魏のときの価値観を保存している」わけじゃないのがな……。


魏書天象志との付き合い方、マジで難しくて泣いてる。


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