天文16 星変398年

宋書。


398 年の閏月、金星が羽林うりんにて昼に見えた。また月が東上相ひがしじょうそうを犯した。399 年 5 月,月がまた東上相を犯した。水星が軒轅星けんえんせいに並んだ。

399 年 1 月,楊佺期ようせんき郗恢ちかいを破ってその役職を奪った。また殷仲堪いんちゅうかんが郗恢を殺した。6 月、南燕なんえん軍が青州せいしゅうを攻め落とした。10 月、後秦こうしん洛陽らくようを攻め落とした。桓玄かんげん荊州けいしゅう雍州ようしゅうを支配。殷仲堪、楊佺期を殺した。孫恩そんおんが民衆を糾合して會稽かいけいを攻め、內史の王凝之おうぎょうしを殺した。劉牢之りゅうろうしが討伐に出、打ち払った。400 年 7 月、太皇太后の氏が死亡した。



魏書。


398 年 8 月、胃宿で昼間に木星が見えた。胃はちょうだいの領域である。また木星は国君にまつわること、昼に見えるのはその威徳が赫々としていることを示す。すなわち「大海をも背負う君主あり、その徳にて自らを救済し、帝王に代わって天下の主となる」兆しである。

同月首都領域が決まり、度量衡が定められ、礼楽がととのえられ、官位が確定した。また 12 月には群臣が拓跋珪たくばつけいに即位すべく勧進。翌年元日、ついに拓跋珪は皇帝即位を天帝に報告した。こういった由来で、魏帝を北帝と、晉帝を南帝と呼ぶのである。


399 年 10 月 と 400 年 5 月、それぞれで月が東蕃上相を覆った。相は親藩が王室を助け、人君の別を確定させるべく動くか否かを示す。このため月の接近は「下のものが上のものををしのぎ権勢を振るわんとしている、このままその者を用いて良いのだろうか?」「多くのものが処刑される事態になり、貴人が権勢を奪われる」兆しとされた。

同年に桓玄は殷仲堪を殺害、長江上流に割拠し、晋の権威をついに貶めた。


398 年 5 月、水星が軒轅星に並んだ。「女主になにかが起こる」とされた。400 年 3 月と 7 月には、月が牽牛で土星に並び、また哭星にも並んだ。「兵の損耗、女性に憂い」「月は権勢者を土星は綱紀が正しいか否かを示す。ならばこれは権勢者が綱紀を犯すことを示す、そしてその舞台は吳越である」兆しとされた。

そしてこの頃晉では太后の李氏が死に、また桓玄が江南で専権を振るい、国難を招いていたのがこれに当たる。




隆安二年閏月,太白晝見,在羽林。丁丑,月犯東上相。三年五月辛酉,月又奄東上相。辛未,辰星犯軒轅星。占悉同上。是年正月,楊佺期破郗恢,奪其任,殷仲堪又殺之。六月,鮮卑攻沒青州。十月,羌賊攻沒洛陽。桓玄破荊、雍,殺殷仲堪、楊佺期。孫恩聚眾攻沒會稽,殺內史王凝之,劉牢之東討走之。四年七月,太皇太后李氏崩。


天興元年八月戊辰,木晝見胃。胃,趙代墟也。□天之事。歲為有國之君,晝見者並明而干陽也。天象若曰:且有負海君,實能自濟其德而行帝王事。是月,始正封畿,定權量,肆禮樂,頒官秩。十二月,羣臣上尊號,正元日,遂禋上帝于南郊。由是魏為北帝,而晉氏為南帝。

元年十月至二年五月,月再掩東蕃上相。相所以蕃輔王室而定君臣位。天象若曰:今下凌上替而莫之或振,將焉用之哉?且曰:中坐成刑,貴人奪勢。是歲,桓玄專殺殷仲堪等,制上流之眾,晉室由是遂卑。〈是歲五月,辰星犯軒轅大星。占曰「女主當之」。三年三月至七月,月再犯鎮星于牽牛,又犯哭星。為兵喪、女憂。或曰月為強大之臣,鎮,所以正綱紀也。是為強臣有干犯者,在吳越。既而晉太后李氏殂,桓玄擅命江南,仍有艱故云。〉


(宋書25-7)




うーん、先にちゃんと校勘記読んどけばよかった。

goushu 様よりのご指摘によれば、



現存のいろいろな『魏書』のテキストの目録部分(=目次)のところに「闕」と注記されている。

https://archive.org/details/06079196.cn/page/n80/mode/2up


宋本『魏書』等の天象志三の巻末には宋代の人の校語が入っていて、魏書の天象志の闕巻を他人の志、具体的には唐の張太素が書いた『魏書』の中の天文志二巻を持ってきて埋めてるといってる。


殿本入考證というのは清朝の殿本『魏書』ではこの校語を本文から削除して各巻末に付録されている考證の部分に引用しているよ、ということ。

・明本『魏書』天象志三巻末と校語

https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=149577&page=207

・殿本系テキストの四庫全書本『魏書』天象志三に付録する考證

https://archive.org/details/06062506.cn/page/n82/mode/2up


いつ魏收『魏書』天象志の闕巻を張太素の天文志で埋めたのかは私はよく知らないけど(唐かもしれないし、もっと後かも知れない)、校語にいっているように唐代の書籍で闕を補ったから唐の避諱が見られる(補闕した時期を推定した物では無く、補闕に使われた史料が唐代のものだということを言っている)。



とのことでした。なるほど……そうすると「宋書からでない星変」も記録はされているかもしれないわけですね。なんかもう魏書の天象志投げだそうかとは思ったんですが、念のため引き続き追っておいた方がいいのかもしれません。周書北斉書あたりが元ネタになっていたかもしれませんしね。まぁ無邪気に天文現象かぶりを喜ばず、「こういう占断があったのだ」を見ていく形にしましょう。



以下、goushu 様よりのご指摘を頂戴する前のテキストです。


魏書卷一百五之三の校勘記に「当時におけるだいたいの目録では魏書卷一百五之三、四が欠損と書かれている」とあるんですよね。なら、何故記述があるか。〈殿本入考證〉によれば「後人が他の史書における志から補ったと思われる。『世』『民』等の字を諱んでいるところからすれば、おそらく唐代における増補であろう」とのことでした。北朝さんもうちょっと頑張って保管してくださいよ……。


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