劉裕108 禅譲宣言詔  

419 年に安帝あんていが殺され、東晋とうしんラストエンペラーたる恭帝きょうていが立ちました。彼のお仕事は、劉裕りゅうゆうに禅譲をなす、と言うもの。そのときの詔勅は傅亮ふりょうが草稿を書き、恭帝がそれを清書しました。清書しながら恭帝は「桓玄かんげんの時に晋は終わっていたのにもかかわらず、ここまで長らえさせてもらったのだ」と呟いたそうです。まぁその後殺されるんですけどね。関連はこちら。

https://kakuyomu.jp/works/1177354054888050025/episodes/1177354054888991293

すげえ省略のしかたしてんな、びびったわ!(※省略した本人のコメント)



天造草昧 樹之司牧

所以

陶鈞三極 統天施化

 天は草花を生み、木々に統べさせた。

 曖昧模糊とした場に、

 秩序をもたらしたのである。

 すなわち、聖王による天地人の統治。

 世の教化に他ならぬ。


大道之行 選賢與能

隆替 無常期

禪代 非一族

貫之百王 由來尚矣

 古くより、この偉大なる道を進むのには

 それをなし得る賢者が選ばれた。

 盛衰は常ならざるものであるし、

 聖王の玉座につく者は、

 同じ一門のものである必要もない。

 これは古来の王たちに共通のことであり、

 現在もまた、例外ではない。

 

晉道陵遲 仍世多故

爰暨元興 禍難既積

三光貿位 冠履易所

安皇播越 宗祀墮泯

 晋の進み来た道は、いま、

 大いに滞るようになってしまった。

 そして世の中にはトラブルが増え、

 ことに桓玄かんげんが実権を握ってより、

 そのわざわいは極大となった。

 天に輝く星々は異常な運航をし、

 保たれるべき儀礼は失墜し、

 安帝陛下は鄙地に連れ出され、

 晋室を祀る者は宗廟から喪われた。


則我

宣元之祚 永墜于地

顧瞻區域 翦焉已傾

 すなわち、我らが宗祖たる

 司馬懿しばい様、司馬睿しばえい様より受け継いだ

 祭礼は、あのときに喪われたのだ。

 晋と呼ばれている地を振り返れば、

 その滅亡は明らかなことと言えた。


相國宋王

天縱聖德 靈武秀世

一匡頹運 再造區夏

固以

興滅繼絕 舟航淪溺 矣

 しかるに相国宋王、劉裕殿。

 天はそなたに聖徳をもたらされ、

 しかも秀抜の霊武をお与えになった。

 斉桓公せいかんこうを補佐した管仲かんちゅうが如く、

 傾ききった国運を、立て直された。

 これは論語に言う興滅繼絕、

 亡国や絶えた皇統の復活であり、

 あるいは本来なら沈んでいる船を、

 航行できる状態にまで建て直した、

 かのごとき御業である。


若夫

仰在璿璣 旁穆七政

薄伐不庭 開復疆宇

 なれば天を仰ぎ、太陽や月、

 金木水火土、各惑星の動きを計算し、

 まつろわぬ者どもを討ち、

 晋の国土を回復された。


遂乃

三俘偽主 開滌五都

雕顏卉服之鄉

龍荒朔漠之長

莫不

迴首朝陽 沐浴玄澤

 こうして譙縱しょうじゅう慕容超ぼようちょう姚泓ようおうを捕らえ、

 五つの都を奪還された。

 顔の彫りの深い蛮族どもや、

 北西の砂漠地帯の蛮族どもも

 誰もが東に昇った朝日のごとき

 劉裕殿のほうを向かれ、

 その偉大なる水徳に浴された。


四靈効瑞 川岳啟圖

嘉祥雜遝 休應炳著

玄象 表 革命之期

華裔 注 樂推之願

 このため麒麟や鳳凰、霊亀や龍といった

 霊獣たちが瑞祥として現れ、

 河川や山岳には新たな天子の出現を

 示す言葉が現れている。

 余りにも多くの瑞兆が目撃されており、

 天の運行も禅代を示し、

 代々天子と共にあった者たちの末裔も

 また新たなる天子の出現を

 心より望んでいる。


代德之符 著乎幽顯

瞻烏爰止 允集明哲

夫豈

延康有歸 咸熙告謝

而已哉

 世には斯くも金徳より水徳に

 移り変わらんとする兆しが

 明に暗にと溢れている。

 小雅正月にて、カラスが

 よりよき軒先を求めているように、

 明哲らがいま、王の下に

 こぞっておられる。

 それは漢の末年の延康えんこうの時代、

 または魏の末年の咸熙かんきの時代と、

 何ほどの違いがあろうか。


火德既微 魏祖底績

黃運不競 三后肆勤

天之曆數 實有攸在

朕雖庸闇 昧於大道

永鑒廢興 為日已久

 昔、漢の火徳が衰えたときには、

 魏王曹操そうそうがその衰えた国運を支えた。

 また魏の土徳が衰えたときには、

 司馬懿様、司馬師しばし様、司馬昭しばしょう様が

 魏の国をよくお支えになった。

 まこと、歴史とは繰り返されるもの。

 朕は凡庸、大道を歩む術も持たぬ。

 しかし国々の興廃をつぶさに省察し、

 来るべき日が近づきつつ近くあるとは

 存じておる。


念 四代之高義

稽 天人之至望

予其

遜位別宮 歸禪于宋

一依唐虞 漢魏故事

 三皇五帝より周に至るまでの

 上古に示された偉大なる気風を思い、

 また天帝がお望みであらせられよう

 後世のありようを考えれば、

 我は天命去りし者として、

 皇位を退き、宮殿を去り、

 国運を宋に譲るべきである。

 これはぎょう王やしゅん王、

 かん献帝けんていや魏の元帝げんていがなした

 故事に依るものである。




夫天造草昧,樹之司牧,所以陶鈞三極,統天施化。故大道之行,選賢與能,隆替無常期,禪代非一族,貫之百王,由來尚矣。晉道陵遲,仍世多故,爰暨元興,禍難既積,至三光貿位,冠履易所,安皇播越,宗祀墮泯,則我宣、元之祚,永墜于地,顧瞻區域,翦焉已傾。相國宋王,天縱聖德,靈武秀世,一匡頹運,再造區夏,固以興滅繼絕,舟航淪溺矣。若夫仰在璿璣,旁穆七政,薄伐不庭,開復疆宇。遂乃三俘偽主,開滌五都,雕顏卉服之鄉,龍荒朔漠之長,莫不迴首朝陽,沐浴玄澤。故四靈効瑞,川岳啟圖,嘉祥雜遝,休應炳著,玄象表革命之期,華裔注樂推之願。代德之符,著乎幽顯,瞻烏爰止,允集明哲,夫豈延康有歸,咸熙告謝而已哉!昔火德既微,魏祖底績,黃運不競,三后肆勤。故天之曆數,實有攸在。朕雖庸闇,昧於大道,永鑒廢興,為日已久。念四代之高義,稽天人之至望,予其遜位別宮,歸禪于宋,一依唐虞、漢魏故事。


(宋書2-41_文学)




五都

漢書では洛陽らくよう邯鄲かんたん臨甾りんしえん成都せいと

三國志は長安ちょうあんしょう許昌きょしょうぎょう、洛陽。

前者だと邯鄲を回復できてないし、後者だと鄴は回復できていない。そうすると二つをマッシュアップして洛陽、臨甾、成都、長安に加えて譙か許昌のどっちか、とするのがいいのかな。この両者はちょっと選定しがたい。まぁこの辺りはあんまり数字に拘泥しすぎるとマズそうな印象はある。「多くの旧都を奪還しました」の雅語と見なすべきなんでしょう。たぶん三皇五帝に引っかけてるよね。


しかし漢が火徳、魏が土徳と語るんなら、この詔勅の中に晋が金徳だって言葉も含まれそうなもんだけど、避けられてますね。宋の水徳も間接的にしか語られてない。ここは迂闊に言っていいものではない、と解釈するといいのかしら。

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