夜叉

僕はこれ程までに人が怖いと思った事はない。

エゴが暴走し報われる事のない心が壊れ、形骸化している者も何食わぬ顔をして社会生活を送っている。


あなたの隣に居る人は本当に人間だろうか?





***





ある料理屋でアルバイトをしていた時の話だ。

僕はキッチンの仕事をしていた。イタリアンのお店でオープンキッチンの中で調理をしグラタンを焼き、パスタを茹でる。

その店は若い子達が多く専門学生やフリーター達が多かった。

ノリも軽くよく飲み会をしたりバイトの誰と誰が付き合ったりだとか話をしたり遅れてきた青春の様な感じがとても楽しかった。


その中に長い間働いている年上の女がいた。見た目に気を使わない様なタイプでいつも引っ詰め髪だったので皆から太ったおばちゃんと呼ばれて弄られる様な人だったが口数は少なく陰気な雰囲気がいつも漂っていた、その女の名前は木下といった。


同じ時間帯のアルバイトという事もあり僕は木下と話す機会が多かった、年は当時の僕の五つくらい上で近くで一人暮らしをしていると言っていた。

趣味はV系の音楽を聴く事でインディーズバンドのボーカルの追っかけをしているという。それでそのボーカルにどうやったらお持ち帰りをされるか?という謎の相談を僕はよく受けていた。


優しい僕は親身になって服装を変えてみるとか髪型や化粧を変えてみるといいかもしれないなどのアドバイスをしていた、それが裏目に出た。


僕は自他ともに認めるメンヘラを呼び寄せる体質で例に漏れず木下もそうだったのだ。

年上過ぎるというのと僕が恋愛対象として見ていなかったので安易にテリトリーに近づき過ぎた、反省している。

ある日相談があるというので近くのバーで話を聞く事になった、バンドのボーカルに今度告白しようと思う、どういう風に言えばOKが貰えるかな?とやけに鼻にかかる声で木下は言う。

そこでも親切心から丁寧に答えを探していると気づけば終電の時間が終わっていた。


ネカフェで寝ようかと考えていた所、木下がうちに泊まればいいと言って来た。

泥酔だった僕は深く考えずにそれに従う事にした。

帰る道の途中いつの間にか手を握られている。家に着きベッドとソファがあったのでソファに方に横になるとベッドで寝ていいと木下が言う。目を開ける事さえ億劫になった僕は倒れ込む様にベッドに横になった。


---どれほど時間が経っただろうか?喉の渇きを覚えて目を開けると木下が微動だにせず至近距離から僕の顔を見ていた。

驚いて声を上げると、瞬きもせず木下が言った。

「私あなたの事が好きなの、付き合って。」


鼻にかかる嫌な話し方だ。


「いやあなたはバンドのボーカルが好きなんでしょ?意味わかんないっすよ、寝ましょう!」

木下が強引に僕にキスをして舌を捩じ込もうとして来た。反射的に突き放す。


「やめてください、そんなつもりじゃないんで。」


その瞬間木下の目が変わった、あれを例えるなら鮫の目だ。明かりの差し込まない真っ暗な瞳。元々の雰囲気も相まって木下は人間以外の怪物の様に見えた。


その後は部屋の隅に大きな背中を丸め、壁に向かってブツブツと独り言を喋っている。

これは危険だと判断した僕は礼を言って家を出る事にした。木下から何の反応も無かった。



***



次の日明らかに様子のおかしい木下が出勤時間から一時間以上遅れてやって来た。

挨拶をしても何も返して来ず独り言を喋り続けている。酒を大量に飲んでいる様で店の酒を勝手についでは飲み続けている。



何で私は、何で私は何で私は何で私は何で私は何で私は




社員に相談しようと思ったが原因が僕かもしれないと思い中々事務所に行く事が出来なかった。


夕方になり客がチラホラと入り始め僕が料理を作っていると木下がやってきて突然怒鳴り始めた。


「何で私じゃだめなのよ!!何で!!!何で!!!!」



意味がわからない、とりあえず落ち着いてくださいと諭しても訳の分からないことを叫び続ける。そして僕のすねを蹴り始めた。最初は我慢していたが堪忍袋の緒がブチ切れた僕は叫んだ。


「お前みたいなもんと何で俺が付き合わなあかんねんふざけんなヴォケ!!!!!」


鮫の目に変わった瞬間包丁立てにあった一番大きな牛刀を掴もうとする木下、その右手を抑える僕、周りがざわつき始める。

バイトの先輩がお前らイチャつくなってと冗談を言い終わるのを待たずに「こいつが包丁で刺して来る!」と叫んだ。


そのまま僕は近くにあった蛇口に包丁を持った腕ごと叩きつける。


牛刀が落ちたがまだ包丁を取ろうとするので僕は木下の首を殺す勢いで締めた、冷蔵庫に叩きつけながら、首に指の爪がめり込む感触が未だに忘れられない。


そのまま泣き出した木下は店の外に向かって走り去った。





***





殺されかけたという事実に足が震えた、あの時包丁を掴む腕が少しでも遅れていたらと思うと血の気が引く。


帰り道、電話が鳴るので開いてみると木下からの着信が30件入っていた、そばに木下が包丁を持って立っている様な気がしてその日から僕はノイローゼ気味になった。




その後1ヶ月ほどすると連絡も無くなり噂では新しく気になった男が出来たのだという話を聞いた。






今も木下は男を捕まえようとあの生き方を続けているのだろうか、僕はもう二度と会いたくない。

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