透明な七色

マフユフミ

第1話

幼いころからピアノが好きだった。

覚えている一番古い記憶が、どこかのステージで演奏されるピアノの音色を必死になって聴いていること。

その時から私は、ピアノの虜となった。


親は普通の習い事として私をピアノ教室に通わせてくれた。

でも足りない。私はもっともっとピアノに触れたくて仕方なかったから、親に頼み込んでレッスンの曜日を増やしてもらった。


好きこそものの上手なれ、というのは本当だと思う。

私がピアノにのめり込んでいくに従い、その腕前もどんどん上がっていったから。

真香まなかちゃんすごーい!」

「やっぱり佐伯さんが一番だね」

数々の称賛の言葉がうれしくて、私はさらにピアノが好きになっていった。


そんな純粋な思いで取り組んできたピアノが、すこし形を変えてきたのが小学校高学年のころ。

「真香ちゃん、コンクールに出てみない?」

先生の一言が、その後の私の人生を変えた。


普段にもまして一生懸命練習して挑んだコンクールで優勝。

もらったトロフィーはガラスで出来ていて、とても特別な物のように思えたことを今でも覚えている。

トロフィーと花を抱え、にっこり笑ったオレンジ色のドレス姿の少女。

思えばこの時が、純粋にピアノに向き合えていた最後だった。


それからのレッスンは、好きで弾くものからコンクールで勝てるものへと変わっていった。


「はい、またそこミスタッチ!」

「もっと手首を柔らかく使って!」

先生の叱咤に気持ちを奮い立たせ、一生懸命ついていく毎日。

技術は目に見えて上がり、ピアニスト佐伯真香の名前は徐々に知れ渡っていった。トロフィーもどんどん増えていく。

学校以外の時間をほとんどピアノに費やしていたといっても過言ではないほど、私はピアノに触れていた。


そんなある日のレッスンで、私はまた一つミスをした。

「真香ちゃん、そんなにミスばっかりしていたら、コンクール通らないよ」

先生のその一言に、私の中の何かが折れた。


「私はなんのためにピアノを弾いているんだろう……」

先生の声を遠くに聞きながら、私はそんな根本的なことに気づいたのだ。

今の自分は、ピアノのことを好きじゃない、と。


正直ショックだった。あれほどまでに恋焦がれていたピアノというものに、今はなんの感情も抱いていない。

ただひたすら、コンクールで上位をとるためのレッスンを繰り返し、楽曲と心を通わせ思いを乗せることとか、響いてくるピアノの音色に体を任せてみることとか、そういったこれまで当然のように楽しんできたことを今は全く楽しめていない。


「私がピアノを弾く意味って何?」

家に帰り、自分の部屋でそっとつぶやいた。それが分からないうちは、ピアノに触れてはいけないような気がした。


次の日から、私はレッスンを休んだ。

指が動かなくなることなんて百も承知だったけれど、こんな機械的な弾き方でピアノに向き合うことが怖くなったのだ。

いつか嫌いになってしまう。

あんなに好きだったのに今は感情がないのなら、最期はきっとピアノを憎んでしまう。

そう思ったから。


これまでレッスンに費やしていた時間を、ただひたすらぼやーっと、死人のように過ごした。

幸いだったのは、なんとなく私の気持ちを察してくれた親が何も言わなかったことだ。きっと先生にも話を通してくれていたのだろう。

先生にも悪いことをしているという自覚はあったけれど、人を思いやって何かをできる状態ではなかったから、そっと見守ってくれるというスタンスはとてもありがたかった。


ピアノに触れなくなってからもう半月もたった。

いまだに私の中で、ピアノへの思いを定めることができずにいた。

「もうこのまま辞めてしまおうか……」

コンクール優勝に向けて、また毎日大変なレッスンを繰り返すという覚悟が持てなかった。


そろそろとピアノに近づく。

触れたそれはひんやりと冷たくて、なんとなく哀しくなる。

温かかったはずなのに。ピアノは私の心を温めてくれるものだったはずなのに。

なのにどうして今はこんなに冷たいの?


そのとき目に入ったのが、初めてのコンクールの時の写真とトロフィーだった。

大事な思い出としてピアノの上に飾ってあるそれを見ていたら、たまらない気持ちになってしまった。

「コンクールに出なければよかったのかな」

そっとトロフィーを手に取る。

「これがなければ、私はピアノを今も愛せたのかな」

もやもやと黒い感情が渦巻いてきて、私を支配していくのが分かる。

「これさえなければ」

私はトロフィーを壁にたたきつけた。


パリン!


大きな音がして、トロフィーは粉々に砕けた。

舞い散るガラスの欠片。

形をなくしたそれは、ライトの光を浴びてキラキラと輝いている。

虹色に輝くそれを見ていると、なぜか涙がこぼれた。


「キレイだ……」

そう、それは本当にきれいだったのだ。

こんな感情のままに叩き割ってしまったというのに、夢の世界のように輝いて。

落ちていく様子がスローモーションのように目に映った。


「…弾きたい」

このキラキラを。この美しさを指に乗せて。

「弾きたい!」

私は無我夢中でピアノの蓋をあけ、鍵盤に指を乗せる。


そうだった。

私は大切なことを忘れていた。

私は思いを伝えたくてピアノを弾くんだ。

コンクール優勝が目的なんかじゃなく、大好きなピアノでいろいろな景色を、思いを、美しい光景、切ない感情、様々な心模様を伝えたいんだ。


ミスタッチも強弱も何も気にしない。

好きなように、好きなだけ。

ピアノの前にいる私は、こんなにも自由だ。

その自由を守るため、コンクールに出る。

コンクールはゴールなんかじゃない。

それがピアニストとしてのスタートになるんだ。


ああ、今こんなに満たされている。

粉々になったガラスの前、徐々にぬくもりを取り戻しているピアノを弾きながら思う。

やっぱり私は、ピアノが大好きだ。


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