鱗、逆立つ

千羽稲穂

鱗、逆立つ

 たった一文、書いてみただけだった。そのたった一文から、僕の物語は始まった。世界の片隅でゲームをひとりでしているだけだったのに、ほんの少し書いてみたいなと思ったのだ。頭の中の情景があんまりに美しく、滑稽で、不思議で、そんなものを文字だとどう表せるだろうか、と。ゲーム実況だけしていた日々に一滴の水滴が穿つ。僕の立っている場所から、彩りがさえわたる。葉っぱたちがかさかさと共鳴して、風が木々を突き抜けていく。風は水面を揺らし、僕の肌が、鱗が逆立つように泡立った。僕はゴールのない旅に泳ぎ出た。

 最初に水面に映し出された情景は、茜色の雪だった。透き通った茜色が降っていた。溶けいく世界の中で倒れている少女に、手を伸ばす。すると、僕の掌に雪が降り積もる。どの雪も茜色で、なんだか懐かしい色合いに放課後のような匂いがした。静まりかえった世界を美しく、水面を情景が突き破っていく。大きな投石だった。この景色を書き出さないといけない。茜色の雪にどう言葉で表せばいいのだろうか。そればかりが頭の中を占領した。大学の講義中も、ゲームの実況中も、友達と呑みに行くときでさえ、僕はたった一筋の光景をかき消すことはできなかった。何か月もかかった。数百回しか再生されないゲーム実況を放り投げて、ひたすらに紡ぎ続けた。

 そして、書き上げて投稿した。

 これが最初に書いた小説「茜雪」だった。後半の描写にこぎつけるにつれて、雪が降り積もり、僕の肌はざわざわとうごめいた。何回か連ねた少女の死と情景の美しさを融合させて、世界を壊す僕の欲望がまぜこぜになっている作品だった。読めば読むほど、僕の中の情景と合っているようで、絶妙に異なっていたが、書きあげて投稿しただけで満足だった。

 ただゲーム実況のアカウントで、この小説を流したところで、誰も読まなかった。中には奇特な人もいて、ちょっと物見遊山で読んだ人もいるようだが、PVだけ残して「茜雪」には何も言ってこなかった。

 その時点で気づいていた。僕には物語を紡ぐ才能がない。情景だけ追い続けているだけ。水の中をさまよう魚にでもなった気がした。目の前にはまっくらな世界しか広がっていない。水の中は息がしづらい。ぷかぷかと口から泡沫が吐き出される。鱗だけがぎらぎらとぎらめいていて、まだ書きたいと叫んでいた。つやを増し続ける鱗に呼応して、それでも気力でなんとかもう一本書き上げた。

 僕の中のもう一つの情景だった。そこは殺人現場だった。近くに死体があって、犬が僕に語りかけるのだ。「俺が殺したんだ!」犬は冷たくて、髪の毛が乾燥していた。口から血みどろの塊が零れ落ちている。よくよく見ると、それは犬の舌で、力なく垂れ下がっていた。口も目も動かず、生気がないのに、犬は語り続けた。「ここの家主は偏屈家だった」と。僕は急いで記憶を脳内に刻み続けていた。空間を揺さぶる至高の不思議な情景に、うぬぼれていた。

 滴り落ちる舌の血液なんかに、どうして感動しよう。誰が僕の好きな情景を好きだと言ってくれよう。僕の好んだ作家や文章を誰が知っているというのだ。誰が僕の言葉が好きだなんていうんだ。僕のことを知らないくせに。誰が僕に時間を使ってくれるんだ。こんな才能ないやつに。

 そんな葛藤の中、うぬぼれだけで「忠犬過失事件」を書き上げた。今回はうまく物語を込めたと思った。「茜雪」の情景には及ばないが、ぜんぜん凝ってもいないし、時間もかけていない。そこに謎と解決を転がした。「茜雪」が、反応がないのだから、こっちもそうそうに反応がないだろうな。勝手に決め込んでふて寝した。

次のゲーム実況は何にしようか。ファイナルファンタジーみたいな長いものでもいい、ICOのようなニッチな層に受けるもの、フリーゲームのibをして客を寄せてもいい。ゲームだけは変わらずに好きで、表現を自ら生み出すことはなかったから、実況中だけは安心できた。

 絶望したのは、思ったよりも「忠犬過失事件」が伸びたから。ただぎらぎらした鱗を見つめて、やりやすい息の仕方で泳いだだけの作品だった。忠犬のPVが多い。僕は小説のことなんて深くは知らないのに、勝手に失望した。忠犬のほうが受けはいいのか、とも思ったし、力を入れずに書いたものが評価されても嬉しいと感じている自分がいることに、悲しくなった。

「僕が書きたいものってなんなんだろうか」

 ふと、つぶやいたものをデリートして、

「僕は何を目指しているんだろうか」

 何度か自問自答したツイートを、下書きに放り込んだ。

 ゲーム実況だけは安定してアップロードを繰り返し、撮り続け、ルーティンと化していた。僕は何を目指して書いているんだろうか。何を見て、ゲーム実況を続けているんだろうか。深海に陥った思考にゴールなんてなくて、泳げなくて苦しくなった。誰にもわかりはしない僕の情景描写を、出力する意味なんてあるんだろうか。僕の中で眠っている宝をひけらかし、情緒もなく、惰性で続ける意味なんてない。右上がりにならない水平線を見つめて、PV数の一喜一憂すらもうっとうしくなる。僕はベッドの上にダイブして、深く潜った、水深の先で決心した。

 もうやめよう。

 何かツイートしたのは覚えている。なにかしら言葉を残した気もするし、ゲーム実況の少なからずいたコアなファンも、温かなコメントもあったのは知っていたが、こいつらは僕の小説を読んだことがないのだな、と皮肉に笑い捨ててしまった。ゲーム実況だけ、していればよかったのかもしれない。でも、僕は僕の中にある情景も見てほしかったのだ。それは傲慢だろうな。

僕はネットにあった全てのアカウントを消した。


 くぐもった水深の中で、また何かを見つけようとした。鱗の艶は濁っていたし、目の前はまっさおの水の中で新たなことを掘り当てるには苦労を要した。ぷかぷかと、浮かび上がる泡沫をつぶして、手元にあるゲームをやりつくした。昔ながらのゲームが好きだった。64のゼルダの伝説、ゲームキューブのピグミン、一人でマリオパーティーをして、それなりに現代に戻ってきて、フリーゲームでちょっと人気になっている霧雨の降る雨をプレイして、さんざめく雨の音を聞いていた。暗闇に浮かぶ青白い光に、ぼんやりと僕は何をしているんだろうか、と思ってしまう。

 リアルでは、僕はしがない大学生だ。学業をこなしながら、それなりに呑んで、就活におびえる。単位もそこそこにとって、サークルで一発やれる女の子を、目を皿にして探り当てる。そんなどこにでもいて、コンテンツも立ち上げず、流されるままの魚の目には、水面に浮かぶ情景描写が漂っている。そこへ再び、巨大な隕石が降ってきた。水面を大きく揺らして、僕を呼び起こす。

「僕はこのノベルゲームが好きで、これをやるのは二回目なんです。作者様には本当に感謝をしています」

 それはノベルゲームだった。何年も昔の動画だと思っていたが、ほんの数日前にアップロードされたゲーム実況だった。何年も何年もかけて同じノベルゲームをしている実況者で、丹寧に世界観を触れていた。優しい語り口で渋い言葉を言いながら実況され、僕は知らず知らずのうちに次から次へその実況者のゲーム実況を見ていた。僕の体が鱗立つのが分かった。泡沫がぷくぷくと口から吐きだされて、息がきらめき、世界がつやめき、情景が印象的に記憶に刻まれる。

 もう一度だけ、僕は情景が描きたくなった。そこにある物語を流したくなった。ゲーム実況が面白かった。鱗が、逆立っていた。ドキドキしていた。ワクワクしていた。すぐに僕はゲーム実況を撮り始めた。ひとつのゲームに入れ込み、丁寧にあらう。それを取り込んで、物語と情景をひたすらにインプットし続けた。ゲーム実況を次々にアップロードする。徐々に視聴者や視聴数が伸びる。本数が多くなれば多くなるほど、盛り上がり、一方で僕は世界観に没頭することを忘れなかった。

 小説を書くんだ。

 初めて具体的に、そう決めた。


 「死んだ犬が喋る話」という名の作品に出会ったのは、僕のゲーム実況が軌道に乗り始めた頃合いだった。懐かしのフリーゲームが次々にリメイクされて、FALL GUYSやamong asといった大人数の実況に呼ばれるようになり、あのノベルゲームをしていた実況者とのコラボにもこぎつけたときだった。

 僕はこの作品の文を知っていた。中には悪癖や魔法少女、龍といった僕の作風とは異なる題材のものもあったが、明らかに僕の語彙で、でもきちんとオリジナリティを確立されていて、なんだか懐かしい作品が、その作者の作品欄に並んでいた。

 涙ぐみながら、自然と感想を送るとすぐに返信がきた。

「もしかして、忠犬過失事件の作者の方ですか」

 泡沫をぽろぽろとこぼす。僕の耳に飛び込んでくる彼女の言葉に、抑えようのない感情を抱いた。ひとつ、ふたつ、と彼女の言葉に息をのんだ。水面にそそぐ光を全身に浴びて痛みと嬉しさを、目に宿した。死んだ魚の目は、もう永遠に消えない生きた炎を灯していた。

「わわ私、あな、あなたの大ファンです。あなたの、情景を、いつも追っています」

 ありがとう、よかった。

僕の情景は確かに、彼女の中にあった。

「し、小説、まだ書いてますか」

 僕はまた書いて投稿することを、固く決めていた。もう決して揺るがない泳ぎ方を知っていた。前はまだ見えないけれど、きちんと書き進められる。今、綺麗な情景が見えた。魚が燦燦と光が降っている水底を泳ぐ景色だった。行きつく先は見えない。この情景をどのようにしたら上手く伝わるかもわからない。でもそのゴールを目指して、僕は書き出すのだ。

「うん、また読んでよ」

 この長い旅路は、死ぬまで続くかもしれない。もしかしたらゴールなんてないかもしれない。それでもゴールへ向かい、僕は泳ぎ続ける。

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