これは、はじまり。

Planet_Rana

★これは、はじまり。


「切れないなぁ」


 指をハサミの形にして、さくりと薄いテープを挟み込む。鉄やアルミを削って作られた本家とは違って、人の指は鋭利な部分がない。切れ味が悪くなった古い鋏は紙すら断ち切れず巻き込むが、それと似たようなことが手元で起きていた。


 このテープは手元にある分には無害以外の何物でもないものだ。言うならば人が生きる中で少なからず目標とするだろう夢や、希望といった類のものである。


 私はまた、「切れないなぁ」と繰り返しそらんじて、歌にもならないつぎはぎの音階で鼻歌を奏でた。誰もいやしない真っ黒な空間に一人、閉じ込められて大分時間が経っている。


 夢を見ているわけではない。かと言って現実とも違う。

 今現在、私は必死になってグラウンドを駆け抜けるクラスメイトからバトンを受け取ったところなのだった。


 真っ暗な世界は、私にとってなじみ深いものだ。普段は杖をついて足元を確認する地面の上を、共に走る人の呼吸を聞きながら、並走する。


 二人三脚とは少し違うが、息の合った相手である。

 だからこの切れないテープは、私の頭の中にある幻想――イメージなのだ。


 黒い黒い部屋の中。光の無いその場所で、私は「ぼう」と私のことを見下ろしている。息が上がって呼吸が乱れていることを認識する。口から汗の味がした。足元は石の一つもなく安全だ。けれど、この競争が永遠に続いて行くような気も、してくる。


 バトンをもらって走った私はアンカーだ。けれど、もがけどもがけど進みはしない泥の中にいるような、真っ直ぐ走れているのかも分からない不安がよぎる。


 ああ。ゴールテープは切れやしない。


 天井に張り付いた私はわらう。そんなに高い所から私を眺めて、本当に分かったつもりでいるのだろうか。


 この喉の苦しみが現実だ。この脇腹の痛みが現実だ。

 見えやしなくても、届くかも分からなくても。人が暗中模索するのは、その先にある何かを人ならば掴めると信じているからである。


 この身体がある限り。私という個人が消えない限り。

 踏みしめる足が縺れようと、伴走者の綱がここにある。辿り着いた場所は、今と変わらない暗い世界なのだろう。けれど、きっと走る前の私と、走った後の私とでは何かが違うはずだ。違っている筈だ。


 呼吸が、疲労が、存在が――違っている筈なのだ。


 指先は。それでもテープを切れないと言った。

 自分じゃあ無理なのだと、逃げ腰に言った。


 その顔は見れたものではない。恐怖でも絶望でもなく、ただただ不安なだけだった。

 ざまあみろ、私。


 自分で自分に悪態を吐いて、現実に集中する。

 頬を掠めた風は肌を痛めるほどに冷たい。乾燥した空気は体力と気力を奪う。


 無我夢中になる。隣のランナーを追い抜いて、追い抜いて、追い抜いて行けた気がした。


 ふつっ。


 それは、想像していたより柔いと。肌から感じ取れた。

 達成感より先に、この無我夢中の時間が終わってしまったのだということに対する喪失感があった。


 ああ――終わった。終わった。


 そして、息もつかずに次のテープを目の前に張るのだ。

 切る度に強度を増すテープを前にして、私は走り出す為にポーズをとる。


 真っ暗闇で先も見えず。それこそ自分だけを信じて、猛者と切磋琢磨するために。


 その先には何があるだろうか。決まっている。




 私が戦う舞台が。そこには在る。




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