第5話
冷たい何かが頬を擦る感触で目が覚めた。新が重たい瞼を無理やりこじ開けると、金いろが目に眩しい。
「……起きられるか、シン」
「え、あ、……うん」
細められた目も溶かしたような濃い金色で、こんな外人知り合いにいないはず、と思いかけて、見知った顔立ちであることに気がつく。藍川、ならぬ、アインだった。
(真っ金きんな藍川……ふつうに似合ってんのが腹立つ……)
藍川とそっくり同じ顔に思うところがありすぎるのだが、アイン本人には罪はない。やたら軋む体を起こして、木のコップを差し出されるままに受け取る。水を一口含み、それから一気に飲み干す。ただの水をこんなにも美味しいと感じたのは初めてだ。
「動けるようなら、裏の井戸行ってこいよ。大きな怪我はなさそうだけど」
「ああ、大丈夫、だと思う」
少し辺りを見てくる、と言ってアインは崩れた聖堂入り口から出て行った。
立ち上がるだけでも一苦労だった。服を軽く捲れば、そこかしこに火傷と擦り傷と打ち身がある。幸いにも本格的な医療が必要な怪我はなさそうだった。
『
「おわっ」
不意に脳内で響く落ち着き払ったアルトに心臓が跳ねる。
(……そっか、あー……メム?)
『はい』
そういえば、今新の脳内にはメムが同居?しているのだった。
(昨日から色々ありすぎて、脳が追いつかない……)
ただのひとりごとのつもりだったが、
『それでは現状確認を。我々はおよそ十八時間前に観測を開始しました。直後、当該観測世界、“
メムが
『何か齟齬がありましたか』
(いや、そうじゃないんだけど──)
そもそも、あっさり省かれた“観測”とやらを始める前の事柄からして新にはまだ飲み込みきれていないのだ。
ジェネシスのゲームアプリをやったら、急にものすごく死にたくなった。新には以前から黄昏を見ると死にたくなるという原因不明の衝動があったが、ゲーム内で見ただけでもトリガーになるとは思わなかった。発作的にベランダに出て、落ちたはずが、藍川に助けられた。何故か悪魔の羽を背負った、隣に住む幼馴染に。
それから気絶したと思ったら宇宙空間めいたところにいて。一緒に来たらしい藍川が言うには、地球で十七年普通に生きてきた真並新は、実は観測都市というところの観測者というもので、ざっくり言うと宇宙人の仲間だったらしい。
(そんなゲームかラノベみたいな属性いらなかった)
しかもチート能力があるわけでもなく、存在としては消えそうなほど弱々で、放っておけば消えてしまうとのことだった。
ジェネシスはこの世界をモデルに前世の藍川がつくったゲームだとも言っていた。
(俺のオリジナルの魂がここにいて、助けないと俺も消える、だっけ? そもそも、そいつと俺を分けたのが藍川で……って、なんかもう、頭痛くなる)
新がひとつ息をついたタイミングで、メムが報告を再開する。
『──その後、森林内にて筐体と同期。筐体シンの隣人である現地人アインと接触、同行。彼らの生家のある村にて、強大な敵性体“
ジェネシスのゲームでは物語の導入として半ば自動でこなすだけのイベントを、自分で実体験させられるとは思わなかった。未然に防げるならまだしも。
(誰かが死ぬ、とか。何の準備もないまま自分が戦うとか。そういうのはフィクションだけでいいんだよ……)
ゲームだと思って気軽にやればいいなんてほざいたクソ野郎を、思いっきり殴りたい。暴力も喧嘩も苦手だが今なら遠慮なくできる。
『戦闘行動のため中断していた同期処理は、間もなく完了します』
その“同期”が、からだの持つ人ひとり分の記憶を一から十まで全部ぶち込まれることだとは想像もしていなかった。十七年この世界のこの村で生きてきた“少年シン”の記憶全てが、新のものであったかのように鮮明に思い出せるようになってしまった。
もうそれだけで手一杯だったところに、魔物が来て、藍川と同じ顔のアインが来て。それから村が、襲われた。聖堂の片隅に、白い布をかけられた二つの膨らみがある。アインの父と弟だ。
詳しく思い出してしまうと、空っぽのはずの胃がひっくり返りそうな気配があって、首を振って一旦追いやる。
(メム。これって、ゲームじゃないんだろ? 観測世界って、実在する……って言っていいのか分かんないんだけど、つまり仮想じゃなくてほんとの現実なんだよな?)
『現実に存在する世界であり、時間です』
耳を通さずに頭の中で勝手に響く、女か男かわからない低めの落ち着いた無感情な声。新の観測を補佐すると言ったメムの声だ。一度だけ見た姿は揺らめくような銀の髪と、赤い夕焼けの目をしていた。ホド、の持つ黄昏とどこか似ている。
新が黄昏を見ると死にたくなるのは、新の魂の大本であるシンの感情のせいだと藍川は言った。ホドと名乗る長身の男と宇宙空間で相対して、シンは、このホドの前から消えたいのだろうと何故か理解した。
(あの、ホド、って。誰?)
『我々観測者の中で最高位の
(観測者の偉い人で、シンの父親ってことか。……そもそも、観測者って何? 何で世界を観測してんの)
『観測者は各観測世界の事象を記録し、都市の発展に役立てることを目的として生み出されました。観測世界に接続している間、観測都市では
世界を監視だとか支配だとかではなく、研究などの平和的な目的のために行なっているということだろうか。藍川は置いておくとして、確かにメムやホドには研究者らしい雰囲気がある……かもしれない。
『全ての生命は、祖たる星の源から“
分かるようで分からない。簡単に言えば、観測者は強い星の擬人化、といったところだろうか。
『各観測世界には、同型の星核の欠片を持ち、近似した運命を辿る“
強い星を擬人化したのがいて。連星は同じ星のかけらからできた並行存在で。観測者の魂は並行存在のからだを使ってその世界を観測できる。何とか噛み砕いて飲み込む。
『連星同士は類似した外見並びに思考や性格を有し、時に夢や予言、直感といった形で、他の世界の情報を取得することがありますが。地球世界においては、アインが明確に模して娯楽作品を制作したと発言していました』
そうだ。観測者の仕組みよりも、気になるのはそこだ。ゲームではなく実在するというこの世界で、ジェネシスと同じ事件が起きてしまった理由。
(ジェネシスはこの世界のことを知ってた藍川……アイン?が地球でつくったゲーム……ってことだよな。キャラクターがかぶるのはその連星ってやつだからとして。ストーリーまで重なってるのは……)
『時間軸は一定ではありません。観測都市と接続し観測している間だけ、時間の流れを共有します。地球世界と創世世界の繋がりが、現在の私たちの観測よりも未来の時間軸であったということはありえます』
(うーん……藍川が観測してゲームの参考にした時間を、今俺が観測してる、ってこと?)
『……短期間で時間軸が前後することは通常では考えにくいですが、アインが行ったのは不正観測です。観測都市には、現在あなたが観測している事象が正規のものとして記録されます』
結局ジェネシスで起きたイベントがこの先も起こるかどうかは分からないということだろうか。ゲーム知識はあまり当てにできないかもしれない。
ひとまず立ち上がって、裏の井戸に向かう。新は井戸の水の汲み方なんて知らないし体験したこともないが、シンの記憶と体はごく自然に井戸桶を引き上げる。
試しに治癒術も使ってみる。これまではメムが自動戦闘で使ってくれていたが、新自身が使いたいと思えば使い方は頭に浮かぶ。ほわりとオレンジ色のあたたかい光がエフェクトのように散って、傷と疲労感が見る間に回復した。
(連星のからだ、筐体──記憶もあれば、心もある)
家族を、村の人たちを失った悲しみも。魔物への憎しみと恐怖も。この村で当たり前に生活をしてきたシンの記憶と感情は、新の心にも深く突き刺さった。ただ、昨日の荒れ狂うほどだった感情は今はどうにか落ち着いて、
冷たい水で顔と手足を拭った新が聖堂内に戻ると、アインもすでに戻ってきていた。崩れかけた木椅子に腰掛け、ぼんやりと宙を見上げている。派手な金髪金眼ではあるものの、やはり新にとっては見慣れた
(こいつが勇者アインになるのか……?)
よく知っている顔ということを差し置いても、村の幼馴染としての記憶もある。これから起こり得る過酷な運命に巻き込まれるだろうと分かっていて見過ごすのは、どうしたって寝覚めが悪い。ただのRPGの主人公だと割り切るには、藍川やアイン個人として関わり合った時間が邪魔をする。
(死なせたくない、よな)
ゲームの主人公なら、死なない。ゲームオーバーになってもやり直せる。けれどここがゲームではなく現実の世界であるならば、アインが死んでしまうことも十分にあり得る。つい昨日、メムの言葉に従って彼を見捨てていれば、もう既にここにはいなかったかもしれない。
「……アイン」
あいかわ、と呼ぶのと同じ調子で、口から自然に名前が溢れた。疲れきった様子のアインへ治癒術を使う。
「シン」
藍川に呼ばれてきたあだ名と、アインが当然に呼びかけてきた幼馴染の名前とがぴったりと重なって聞こえる。ゲームの主人公でもなく、宇宙人に頼まれた観測対象でもなく、腐れ縁の幼馴染のアインだ、と脳と心で確かめてしまった。理不尽な災厄を共に生き延び、死に損なった同士でもある。
礼のように投げ渡された林檎をなんとかキャッチする。齧りつくアインに倣って、皮に歯を立てる。林檎の甘さが喉に染みるようだった。
「……村に魔物はもういなかった。使えるものを探して、あとは……皆を弔いたい」
「……俺も、やる」
ささやかな朝食を終えて、二人でのろのろと聖堂を後にする。ゲームとは違って、一晩経ったら勝手に弔いが終わっていたりはしない。“知人”の遺体に向き合う覚悟はまだないけれども、他にやれる人間がいない。
焼け跡の無惨な生々しさは新の想像を超えていた。真っ黒に炭化して崩れた木材が、知人らの家の壁や柱だったことを知っているとこんなにも痛ましく見えるものだとは思わなかった。
死んだ魔物は煤になって消えた。血の痕も昨夜の雨で洗い流された。曇り空とはいえ朝の明るさの中で、死を直接的に目にしないだけでもかなり救いだった。顔を確かめた村人たちには、昨夜のうちに聖堂に残された布類をかき集めて覆ってある。
村の中心部の聖堂、その近隣に並ぶアインとシンの家は、どちらの家も比較的原型を止めていた。聖堂前で戦っていたであろうアインの父親のことを思い出しかけて、並ぶ大小の布の下にねむる者たちのことまで考えそうになって、意識から慌てて追い出す。少年シンにとっては受け止めることすら苦痛のはずの出来事で、グロテスクに耐性のない新にもきつい。シンの心情まで重なってしまうと身動きできなくなりそうだ。
(こういう部分は、逆にいっそゲームのプレイヤーだって割り切った方がいいのかもしれないな……)
命がフィクションのようにこんなにも軽く失われてしまった事実が、新にはどうしても重すぎる。
「ちょっと、家、見てくる」
アインに言い出すと、金眼を曇らせて重く頷いた。
「分かった。……オレも家と周りを見てるから、何かあったら呼べよ」
「……おう」
アインに気遣われると、シンとしては同じ苦しみを共有する安堵がある一方、藍川だと思えば居心地の悪さもあって、とにかく落ち着かない。内心で距離を置こうにも、今の状況ではそれも難しそうだ。
半分燃え残った家に入り、見回しただけで、ほんの一日前までここにあったはずの日常の数々が胸を締めつける。脳裏に浮かぶ家族の顔は、地球の家族とそっくり同じものだ。父も、母も、衣服や髪型こそRPGの住人めいているが、顔も声も、あまりに同じ。昨夜、焦げたカーテンで覆い隠された下の体は。
『観測世界同士では、』
メムのくっきりした声に沈みかけた意識が引き戻される。
『近似した外見の、近似した人間関係がままあります。筐体シンの家族構成と、あなたの地球世界での家族構成が近似することは充分にあり得ます』
「……知り合いの顔でやるRPGって、めちゃくちゃ複雑だよ……」
死にそうに掠れた声が出た。体の感覚と浮き沈みする心が、二重にぶれては交点でぴたりと重なり合ってシンクロする。
(からだはシンのものだけど、今動かしてるのは俺だ、新だ。切り分けないと、動けなくなる)
曇った鏡を見つけて袖で拭って覗き込む。地球で飽きるほど見た真並新と同じ顔で、髪色と目はもう少しくっきりした色をしている。父親譲りの濃い灰髪と、母親似のアンバーの目。喪われてしまった家族に由来する、シンが生まれてから今まで当たり前に持っている色と顔立ち。──そしてホドやメムと似た系統の色でもある。少年シンは観測者シンの連星であり、その筐体に入っている新はシンからつくられたものであるという繋がりを、ぼんやり理解した。
(観測者のシンがどんな人間か知らないけど。観測者ってやつがしょっちゅうこんなことしてるんだとしたら、いちいち感情移入なんかしてたらとてもやってけないだろうな……)
『観測時の戦闘行動の有無、人的被害の度合いは様々です。ですが、いかなる時も観測者は平静かつ公明にあらゆる事象を観測する姿勢が望まれます』
(はいはい……)
すかさず解説をねじ込んでくるメムがやや口うるさいが、観測者というメタな立場を思い出させてくれて、少しだけ呼吸が楽になった気がした。
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