第4話
「親父! おふくろ! カイン!」
アインが家族の名を呼びながら、血に浸った小径を駆けていく。ぬめった石畳の走りにくさを言い訳に、道の端で力なく横たわるものたちから目を逸らす。
(ゲームの、通りなら、……)
活性化した魔物の群れがこの小さな森の村を襲った。村の中央には群れのボス、火を吐く
『アラタ! 撤退すべきです!』
(無理だ。だって“からだがどうしても望まないことはできない”んだろ……!)
“家族の安否を確かめたい”。新の、少年シンの心を半分占める思いだ。
(生き残りはいないって知ってる。見たって、分かる。でも)
そしてもう半分は、
“アインをひとりで行かせられない”。
(……バカだよな)
少年シンのこころに突き動かされるまま、足は前に体を運んで、手にした頼りない短剣を不慣れながらも振るう。“アイン”を、どうしても、死なせたくない。シンと新のこころが重なってしまって、区別できない。
(
『……あなたの観測の補佐が私の仕事ですから』
ややあってから、不承不承といった体でメムの返答があった。
村の中にはやはり何匹もの魔物がうろついていた。木剣で魔物の鼻筋や胴を的確に打ち据えていくアインへ、微々たるものだが攻撃力と素早さを上げる補助術をかける。荒い息を一度吐き切って、アインが振り返る。
「シン、オレは聖堂に行く。お前は逃げろ」
「だめだ。ひとりじゃ、どっちも死ぬだけだ」
「……ッ」
歯噛みするアインへ治癒術をかけ、失った体力を回復させる。もう一度。回復量はささやかなものだが、治癒士もなしに戦闘するのは無謀でしかない。
攻撃と素早さの補助術も重ねがけして、自分には防御を上げておく。
聖堂の前の広場に辿り着くと、そこには見上げるほど大きな赤い獣がいた。
毛皮を血と炎で染め上げた巨大な狼が一頭、赤黒い
(あれが、大魔、炎狼……)
『大型敵性体、この観測世界における災厄の象徴“
(わかってる、けど)
「あ、ああ、あ────」
呻くアインの視線の先は、先程炎狼に軽々と打ち捨てられた何か、……アインの父親、の体に向けられていた。村で数少ない、戦える男手でもあった。
「ああああああああッ!」
(“アイン”は絶対に、止まれない)
見上げる高さにある獣の頭に、果敢にも無謀にもアインが木剣で斬りかかる。毛皮が僅かに散っただけだった。ゲームの最初の壁であり、新も初見は負けイベントかと思ってそのままゲームオーバーをくらった苦い思い出がある。
(ええと、バトルは、確か)
アインにいつでも治癒術を送れるように準備しつつ戦闘の流れの記憶を手繰る。アプリ版をプレイしたばかりのはずなのに、焦りと恐怖ですぐには出てこない。そこら中で炎が燃え上がっている最中でも指の先がひどくつめたい。
『接近!』
「シン、避けろ!」
考え込むうちに炎狼から目を離してしまったらしく、炎狼の挙動への反応が遅れた。アインを軽くあしらった炎狼が今度はこちらへ目標を定めて突進してくる。
「わああ!」
慌ててずらした足が縺れて、視界がぶれて、ひっくり返った。そのおかげで牙を剥いて飛びかかってきた炎狼を奇跡的に躱せたが、突進の余波と纏っていた炎が容赦なく皮膚を裂いて焼いていく。振り返った獣が放った咆哮は炎の衝撃波になって、辺りの瓦礫や木片と一緒に吹っ飛ばされた。中ば崩れた聖堂の壁に背中を強く打ちつけて止まる。
「ぐうっ、あ、」
熱い。痛い。全身が痺れるようにめちゃくちゃに痛んで、すぐには立ち上がれない。
『治癒術を……いえ、回避行動を!』
新が苦痛ばかりに気を取られるせいで、メムが発動させようとした治癒術はすぐに解けてしまう。
ろくに動けなくなったこちらを尚も甚振ろうと舌なめずりする獣の、生臭さを不意に強く感じた。血の匂い、焦げる匂い、獣の匂い。死に瀕して感覚が鋭くなったのか、それともずっと麻痺していたのかもしれない。炎も血も黄昏の中で踊っている。橙の光を背にした炎狼を見て、ああ、死ぬんだ、と思った。
(そうだ、俺はずっと死にたかったんだったっけ……)
それは新の感情じゃない、だとか藍川のクソ野郎が言っていた気もするけれど。黄昏を見ると死にたくなった新が、今、黄昏の中で、殺されようとしている。
(じゃあ、いいか……)
そのまま目を閉じようとして。
「諦めるな、死ぬな、シン……ッ」
炎狼の横合いから斬りかかったアインの声に目を見開く。死ぬなよ、と囁いた藍川の顔が、浮かんでしまう。
『治癒を!』
頬を張り飛ばす強さのメムの声に、反射的に練り上げた術が発動して、ようやく立ち上がれた。それからひとりで前衛を張り続けるアインにも治癒を送る。
鋭い爪の横なぎをぎりぎり受け流して、ついにアインの木剣が折れた。それでもアインは退かずに、折れた木剣を手に高く跳躍し、炎狼の残された片目に突き刺す。炎狼が悲鳴とともに大きく飛び退った。
「ガアアアアアァッ!!」
致命傷ではないが、炎狼はのたうち回っている。
他に何かないかと見渡した先、聖堂の扉が燃え落ちた。
(そうだ、聖堂!)
ゲームでは炎狼に一定以上のダメージを与えるとイベントが進行して、聖堂の中に保管されていた聖剣を主人公が手にする。その剣で炎狼に止めを刺すのだ。
「ア、……アイン!」
熱にやられたのか痛みで引き攣っているのか、がさがさの声はなんとかアインにも届いた。目で聖堂を示して先に向かう。
重たい体をもどかしい思いで動かして聖堂に駆け込み、祭壇を目指す。祀られているはずのそれは、祭壇の上ではなく、足元にあった。鞘に入ったままの剣を血塗れの子供が抱きかかえている。金髪のまだ細い体の少年──アインの弟、カインだ。恐る恐る膝の上に抱えた体はまだあたたかいのに、悲しいほどに軽い。
治癒術をかけてやりたかったが、『生命活動はすでに停止しています』とメムに止められた。
「────ッ」
弟のカインが剣を守ろうとしたのか、縋ろうとしたのかは分からない。ただ間に合わなかった、という言葉だけが浮かぶ。
遅れて駆け寄ったアインは、弟の無惨な姿に血が伝うほど唇を噛み締めた。震える手で弟の小さな頭をひとつ撫でて、鞘は細い腕の中に残したまま、剣だけを抜き去る。
白銀の剣身が赤い炎をぬらりと弾く。それを映した金の瞳は、憎しみと怒りを募らせて爛々と光っている。
ゲームのイベントシーンそのもののような光景に目を奪われたが、画面を通して眺めていた時とは何もかもが違う。痛みと血と煤と魔物の悪臭に塗れた絶望的な状況で、剣を手にしたアインの横顔はあまりに悲壮だった。胸を握り潰されるような悲哀があった。
口吻から
「アアアアアアア────ッ!!」
アインが炎狼の額の角目掛けて高く跳躍した。新も残り少ない魔力全てを振り絞って攻撃力の補助術を飛ばす。
アインの剣が獣の角の根本にかかり、斬り落とすまで、新の目には時間を引き伸ばしたように克明に映った。
「ガァッ、グルッ、グガァーァァァアアア────……!!!」
力の源を喪った炎狼がその足元から煤となって崩れていく。
巨大な体が風に浚われていくのを、膝の上の重みを下ろせないまま、何も考えられずに見ていた。
先程までの狂乱が嘘のように静まり返って、パチパチと燻る炎の音が辺りに響く。
「────ッ」
がらんがらんがらん。
アインの取り落した聖剣が派手に音を立てても、他に動くものの気配はない。人も、魔物も。
ゆるりと振り返ったアインの顔からは血の気も生気も失われて、いっそ幽鬼のような凄みがあった。こちらへ、──新が無意味に抱えたままの彼の弟の躯へ、力ない足取りで歩み寄ってくる。動けないでいる新から、壊れ物に触れる丁寧さで抱き上げた。
「……めん、ごめんな、カイン……助けてやれなくて、間に合わなくて、ごめんなぁ……っ」
小さな体に縋りついて嗚咽するアインの声音には人間らしい温度が戻ってきたのに、アインの愛した家族の体は熱を失っていくばかりだ。
アインとシンが生まれ育ったこの村は、ほんの十数世帯が身を寄せ合って慎ましく日々を過ごす、平凡で退屈で静かな場所だった。子供だって数人しかいなかった。“シン”はろくに友達をつくれずにひとりでいるばかりだったが、父と母が、家族が側にいてくれた。
アインにも父母とまだ幼い弟がいた。家族と隣人と村人たちの、それぞれの生活があった。
けれどそれらは、ほんの僅かな時間で全て喪われてしまった。──ゲームとは比べ物にならない生々しい残酷を味わわされたのに、その呆気なさはゲームのプロローグとまるで同じだった。
心臓が苦しい。口に苦い液体が流れてきて、涙を流していることに遅れて気づく。
(“俺”じゃないのに)
この村に生まれて育ったのは“シン”であり、
(ああでも)
同じ顔で浮かんでしまう。地球の、日本の、自分の家族と。
ああ、ああ、ああ。
意味をなさない呻き声は、自分と、隣からも聞こえてくる。
腐れ縁のクラスメイト、
おっとりしていて美人で有名な、おばさんと呼ぶのが申し訳ないくらいの若々しい母親と、かつては名を馳せた剣士だったという厳格な父親。村付近の魔物退治を一手に担っていた。十も離れた弟は、兄のことが大好きで。
全て新自身の記憶ではなく、ついさっき同期とやらをしただけの記録のはずなのに、あまりに鮮やかな“
もし本当にこれがジェネシスの世界なら。
観測世界も観測も何一つ理解できていないけれど。
(どうせなら、ストーリー把握してるチートで村人を助けられるとか)
そういうのだったらよかったのに。悲劇なんて、虚構の世界だけで、つくりもので十分だ。
(これを“ゲームだと思えばいい”って、……無理だろ)
床を繰り返し殴りつける手には新しく血が滲んでいて、掴んで止めさせた。黄昏の中、ひどく重い体で、今は
「……生きてる人、探そう」
『付近に他の生命反応は、ありません』
(分かってる。知ってる)
ストーリーを知っていようがなかろうが、誰がどう見たって、全滅だった。意味のない行動だ。満身創痍で体も心もすべてが重くて、けれど動かなければもう一歩も進めなくなりそうで、なんでもいいから動くための理由が必要だった。
アインが涙に濡れた顔を上げる。藍川がこんな表情をするのはいまだかつて見たことがない。けれどきっと自分も同じくらいドロドロのぐちゃぐちゃだろう。
狭い村を時間をかけて歩き回って、アインと二人でひとりひとりの体と顔を丁寧に確かめた。生存者はやはりいなかった。シンの家族も、見つけられた。見つけてしまった。足が震えてろくに近づくこともできなかった新に代わって、アインがそっと焦げたカーテンで覆ってくれた。
燃え残った聖堂に戻る。陽はすっかり落ちていた。ずっと黄昏の中にいて、一度は迫り来る死を受け入れたはずなのに、夜を迎えようとしている。
死ぬな、と縋るようだったアインの声が耳の奥にこびりついて離れない。死ぬなよ。藍川の声と次第に混じり合って、いつしか重なってしまった。
木椅子に横になれば、泥に沈むように意識が落ちていく。夢なんて見たくもなかったから、それでよかった。
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