第3話

 背中がさわさわする。新が目を開けると、重なり合う梢から夕方近い午後の明るい光が差し込んでいるのが見える。手のひらにも柔らかい草の感触があって、屋外に寝転がっているらしい。土っぽい、自然の匂いがする。

 ばさばさばさ、と鳥が一斉に飛び立つ羽音に驚いて跳ね起きた。

(うわっ……)

 次いでオオオオオオ、と何かの生き物の遠吠えが響き渡る。応えるように周囲からも咆哮が上がって、それはかなり近く聞こえる。

(……やばくないかこれ……)

 思うと同時に木々の合間から黒い毛皮の狼……っぽいものが複数現れる。狼なんてリアルに見たことはないが、犬っぽくて犬よりやばそうな雰囲気の生き物はたぶん狼だ。

(なんか戦闘始まりそうだけど)

 狼がじりじりと距離を詰めてくる。ご近所の犬くらいのサイズ感だがリードは勿論ないし、剥き出しの牙には殺意としか言いようのないものがこもっている。枝か何かで打ち払うか、木の上に登るかと目を逸らした瞬間、一匹が飛びかかってきた。鋭い爪に反射的に上げた腕を容赦なく切り裂かれる。

「っ痛った……!」

『……接続完了。通信回路安定。観測者の周辺環境を簡易観測開始……』

 痛みにも痛みを感じるという事実にも動揺する間に、自分の頭の中から自分以外の他人の声が聞こえてくる。物静かなアルトは、ついさっきも聞いたものだ。

『戦闘状態を確認。自動戦闘を実行しますか?』

「えっはい。……はっ?」

 訊かれた内容もよく理解できないまま、出てきたコマンドにとりあえず決定ボタンを押すような気持ちで答えたら、体が勝手に動き始めて舌を噛んでしまった。

 右手が腰に刺した短剣を抜き、狼の首元に深く突き立てる。刃のずぶりと肉に沈んでいく感触に怖気が走って、思わず目を閉じかけた。薄目の向こうで狼は煤のように風に溶けて消えていく。

「……!」

『戦闘を継続します』

 何匹めかの相手で、目を逸らそうとしたり自分で身動ぎをしようとすると狙いがうまく定まらずに戦闘が長引くことに気づいた。引きつった顔で最後の一匹を切り刻むのをどうにか見届けて、ようやく体に自由が戻る。

 魔物の体は、血も毛皮もすべてが煤になって何の痕跡も残っていない。けれど新が短剣でそれらを引き裂いた感触も、すぐ側で嗅いだ獣の吐息の生臭さも、何もかもがあまりにリアルだった。

 痛みに痺れる右腕を持ち上げれば、流れる血が足元の草に点々と滴る。鼻をつく鉄錆の匂いが自分の血のせいだと認識した途端、くらりと目眩がした。

(何なんだ、これ……どういう状況?)

『アラタ。あなたの星辰せいしん筐体きょうたいは正常に接続されています』

 声は淡々と業務連絡みたいな内容を伝えてくる。自分が口にした言葉とだけでなく、漠然と思い浮かべただけの疑問にもその声は明瞭に答えてきた。ただし、その返答の内容はよく分からない。

(……なんだっけ、お助けAI? ええと、メ……)

 ここに来る前に、藍川あいかわの奴がそんなことを言っていた気がする。顔を思い浮かべるとまた腹の底でどろどろしたものが渦を巻きそうで、今は頭の端に避けておく。それよりも現状を把握するべきだ。

『私の名はメムです。今回のあなたの観測を補佐し、記録します』

 突然目の前に人間が現れた、と思ったら映像らしい。

 新と同じくらいの背丈で、女子とも男子ともつかない中性的な雰囲気をしていた。セミロングの流れる水のような不思議な光沢の銀髪と、それから明るい夕焼けの瞳。

(この色……)

 赤みが強い分少しはましだが、新にとってどうしても苦手な黄昏色に近いせいで、ぞわぞわして落ち着かない。

『この映像は観測者のみが受信できます。──映像受信試験、正常終了。再び音声通信のみに切り替えます』

 メムの姿が消え、夕焼けの瞳も見えなくなったことで、ようやく息がつける。


『筐体の記憶との同期処理を行います』

 再び脳内で声が響く。

「これが内部音声ってやつ?」

『私と会話を行う際、発語の必要はありません。呼びかけを意識してから明瞭に確認事項・質問等を思考してください』

(……メム、分かった)

『同期を開始します』

 他人の……このからだの持ち主の記憶がなだれ込んでくる。

 名前はシン、年は新と同じ十七。現在地のすぐ近く、東の村で生まれ育った少年。親しい友人はなし、趣味は読書と薬草いじり。治癒士ちゆしの素養がある。改めて周囲を見回せば、自分にとっては間違いなく初めて見る森だが、“少年シン”にとっては日常の中で通い慣れた場所だと認識できた。“ダアトの村”近くの古森入り口だ。この森へは薬草採取に度々訪れている。

 唐突に与えられた、キャラクター設定めいた情報を飲み込んでいく。元々の自分の性格とそれほど乖離かいりしていないのは助かるが、客観的に見て(遺憾ながら)かなり根暗そうだ。ほぼ家族以外と交流がなく、狭い村の中でも人間関係が浅くて狭い。

 ごく普通の一般人、村人その一の少年だ。そう言えばゲームのジェネシスでも、主人公アインの幼馴染の名前はシンだった。人ひとり分の記憶が突然自分にり合わされて、本来の自分の記憶を辿りにくく感じる。

 目元を抑えようとして、右腕の痛々しい裂傷が目に入った。左手が動いて腰のポーチを探り、採取したばかりの薬草と手拭いを取り出して、腕に当てて巻くという一連の動作をこなした。少年シンのからだが、そうすればいいと知っているようだった。傷口が見えなくなるだけで痛みが和らぐ気がする……と思ったら、『薬草の効能です』とメムに脳内で解説される。

 改めてまじまじと自分の体を見下ろす。動きやすくて着心地のいい、生成りのシャツともう少し濃い色のズボンは、洗い古されて少しくたびれている。手も足も、いつもの“自分”と変わりなく動かせて、“自分のからだ”だと認識できる。

(この“自分”って、であり、シン少年でもある……ってことなのか)

筐体きょうたい──ここでは現地観測世界における連星れんせいの肉体を指します──に、観測者の星辰せいしん──あなたとアインの言うところの魂──が、接続した状態です。筐体の主導権は基本的に接続した観測者側にありますが、連星の意にあまりにそぐわない言動はできません』

(きょうたい、は村人少年シンのからだ。せいしん、は精神みたいなもん。で、れんせい──並行世界の自分、だっけ)

 筐体は、自分の精神が観測世界とやらにログインする際に使えるアバター、と言えば近いかもしれない。だが並行世界の自分の精神を乗っ取るわけでもなく、本人がしたくないことはできない、と。

(同じシンって名前だけど、探してるシンはこいつじゃないの?)

 胸の辺りに手を置いてみる。

『いいえ。観測者シンの星辰はこの筐体には存在しません。……同期処理を一時停止。敵性生命体、現地世界における総称“魔物”が接近中です。自動戦闘状態待機』

「え、ま、魔物。うわ、また?」

 また背中にぞくぞくする感じが走って、これがいわゆる敵の気配というやつなのだろうかと感心する。

 見えるぎりぎり遠くの木立の合間に一匹、二匹、……もっといる気がする。

『付近に計八体。単独戦闘での処理許容数を超えています。回避行動を優先します』

 メムの声に、再び体のスイッチが切り替わって木の影に身を隠す。


 危機的状況に追い討ちをかけるように、遠くからカンカンカンと警鐘が打ち鳴らされるのが風に乗って聞こえてきた。村の警鐘だ、と理解した瞬間ざっと血の気が下がる。警鐘がこんなに鳴らされるのなんて初めてだと“シンの記憶”が危機感を煽る。音の方向、村の方角に自然と向いていた目が、立ち昇る黒煙を視認した。

(急いで村に戻らないと……ってこれは俺の思考じゃない!)

 だが村へ続く道は魔物が塞いでいる。どうしたものかと迷っていると、ぬっと後ろから突き出てきた手に口を覆われた。

「!?」

「静かに、気づかれる。シン、無事か?」

(んんん!?)

 ものすごく聞き慣れた声、しばらく顔も声も見たくも聞きたくもないと思って、本人にもそう伝えたはずの藍川零あいかわれいの声に似すぎている。瞬間的に沸騰した怒りのまま勢いよく振り返って、眩しすぎる金髪が目に入った。

(なんだ、人違い……か……?)

 アイドルの誰それに似ていると女子に持て囃される、すっきりした鼻筋と涼しげな目元は、コピペしたように同じつくりをしていた。ただし校則違反間違いなしの金髪で、目玉もまたびっくりするほど鮮やかで濃い金色だ。いつもの茶髪と茶目の藍川の彩度と明度を極端に上げたようで、藍川だと思うと違和感がひどいが、それを差し引けば本人の生来の色であるようにしっくりと似合っている。染色やカラコンでは出せなそうなごく自然な色合いだ。

(“アイン”)

 アイン、同い年の隣人、剣士に憧れている。あまり親しく話したりはしない。からだの“シン”の持つデータがまたなだれ込んでくる。

 向こうも新と似たシンプルなシャツとズボンとブーツという出で立ちで、手には木剣が握られている。

「森の端で鍛錬してたら魔物が出始めたんだ。村に戻る途中で戦闘の気配がしたから、誰かいるのかと思って。会えてよかった」

「藍……アイン、村、から警鐘が」

 狂ったように鳴らされ続ける警鐘が、耳鳴りのように頭を揺らす。これを鳴らしている人がいて、鳴らさなければいけない状況にあるということが、恐ろしい。

「……急いで戻ろう」

 先導する藍川……アインに従い、木々に身を潜めながら着いていく。できる限り音を立てないように気を払いつつ進むが、アインとの距離は広がるばかりだ。シンの体とは体力が違うのだと、震え始めた肺に思う。──息が上手く吸えないのは、そのせいだけではないと分かっているけれど。

(ここはほんとにジェネシスの世界なのか──だとしたら)

 “真並新しんなみあらた”が持つ記憶を辿る。少年シンの記憶と感情が中途半端に混ざっていて、思考がうまく働かない。


 ──森で修行していた主人公が不意に現れた魔物に襲われるチュートリアル戦闘。幼馴染の治癒士と途中で合流して、警鐘の鳴り響く中で村に戻る。

 よくあるロールプレイングゲームの始まり方と今では言われるが、その定型を作り上げたゲームのひとつ、『ジェネシス』のオープニングだ。新が生まれる前に発売された伝説のシリーズの一作目で、そのリメイク版スマホアプリがリリースされたばかりで、ほんの数時間前にプレイした部分でもあった。

(……確かに、主人公の勇者アインのビジュアルって、金髪金眼のイケメンだけどちょっと陰があるって感じだったっけ。実写化なり舞台化なりするなら藍川の奴似合うかもな……)

 そんなどうでもいいことまで考えるのは、そうでもしないと足が止まってしまいそうだからだ。

 出てくる登場人物とバックボーンが同じ。森の背景も道も村との位置関係も同じ。魔物の形も荒いグラフィックと一致する特徴があって、最初に使える治癒術も同じだった。そして村が襲われているとなったら、ジェネシスの冒頭で起きる最悪の事態を、いやでも想像してしまう。

(村が、全滅する)

 魔物に襲われて村がなくなってしまうから、主人公は復讐を誓って勇者になるのだ。

 “シン”と“アイン”の家族も親類も知人もいると“知っている”村が。

 警鐘はついに鳴り止んでしまった。危険が去ったからだなんてことは“ありえない”のに、そうであってほしいと“シン”の心が縋るように祈っている。

 新の足がもつれて転びかけると、アインに腕を掴まれた。ほとんど引きずられるようにして村に向かう。

 いくら走ろうがもう間に合わないと新は知っている。だからといって無駄だなんて言えない。シン少年の記憶にある村はいつでも穏やかな時間が流れていて、シンにもアインにもそれぞれに大切な家族がいる。


 ようやく見えた村の門は、燃え盛る炎に包まれていた。村人の安否に、濃い魔物の気配に、足が震える。

『……アラタ。あなたは、星径せいけいのシンから分かたれた星だとアインは言っていました。星径とは、簡単に言えば“重大な役割を持つ強く輝く星々”のことです』

(それ、今、しなきゃいけない話か!?)

 こちらに気づいた狼の魔物が飛びかかってくるのを、アインが木剣で打ち払う。

『現在の状況──あなたの星の存続に関わることです』

 淡々とした調子の中にも重さがあって、足を止める。アインは魔物を一体ずつ的確に倒しているがまだ増えそうだ。

『星径のような、世界に多大な影響を及ぼす星々の運行が乱れる“大改編だいかいへん”が進行している可能性があります』

 がさりとすぐ近くで草を踏み分ける音がして、咄嗟に後ろへ跳んだ。獣の爪が目の前を通り過ぎていく。ぎりぎりで回避しながら、短剣で何度も斬りつけてどうにか仕留める。武器の性能も身体能力も低い上、新自身が慣れない戦闘におくしてしまっていて、雑魚戦だろうがひとつひとつの戦いが命懸けだ。

『退避を推奨します。村の中に強大な魔力反応を確認しました。あなたの筐体と星辰では戦いになりません』

(でも、アインが)

 アインは迫る炎にも襲い来る魔物にも構わずに、今にも燃え落ちそうな村の門を潜り抜ける。

『アインもまた星径の星のひとつ。あの者の星の輝度は、たとえ連星をひとつ喪ったとしても障りありません』

(……見捨てて、逃げろって?)

『あなたの連星が命を落とせば、あなたとシンの星は存続が難しくなります』

 メムの言葉は何となく理解したが、それでも新の、シンの足はアインの後を追う方を選んだ。“あいつをひとりで行かせられない”と腹の底で叫ぶ声が新のものかシンのものか、区別できない。

 日が傾き始める中、ようやく戻った村は、地獄だった。

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