第65話

 

 女主人が急いで角畑と堀田の前に来て、ナイフで生ハムを削り始めた。うるさい客を黙らせるため、作り笑顔で必死に接客しているようにも見える。

 生ハムの原木には骨が入っているので、薄く均一に切るのにはコツがいる。慣れた手つきで生ハム用ナイフを滑らす女主人は一番良い所を切り出してくれているようだ。そのまま手を脂まみれにして、スライスされた肉片を堀田に差し出してくれた。


「いいね……」


 堀田の視線は明らかに酒や生ハムに注がれてはいなかった。女主人の持つ刃渡り三十センチ以上の生ハム用ナイフに注目していたのである。

 鈍く光ったナイフは先の尖った定規に見えたが、肉を削ぐために適度にしなる構造になっている。柄は鹿の角でできており、素人目にも美しいデザインだ。


「お姉さん、ちょっとそれを見せてくれないか」


 堀田がナイフに興味を示し、異様な申し出をした。女主人は酔っ払い客、ましてや堀田のような目の座った危ない客に鋭利なナイフを渡すはずがない。


「何でしょう? このナイフの事? スペイン製なのよ」


 そう言いながら刃についた脂を四つ折りにした布で拭き、すばやく後ろ手に隠した。


 角畑は皿を堀田に押し付けた。


「食えよ、堀田! 飲んで不満を吐き出せ」


 それから堀田は大人しくなった。この精神状態で飲ませていいのかどうか分からないが。


「ああ、ありがとう角畑。すまんな、俺の世界の話をしてもつまらないよな……」


 堀田は落ち着いたのか、生ハムをつまみながら飲み始めた。

 角畑は故郷の実家に戻ってまで現実の藤井さんは今どうしているのか、小林さんの現在はどうなっているのか、確かめざるをえなかった心情を吐露した。


「京都の角畑のお母さんか。久しく会ってないな。元気なのか?」


 堀田は両親を亡くしたので、もう親孝行はできない。正に孝行のしたい時分に親はなし、である。兄弟もいない事から故郷の京都は疎遠になりつつある。


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