八十年




 楼は変わった。

 床に伏せたまま、一日のほとんどを眠って過ごすようになった。もう私の世話も、鍛錬も読書もしなくなった。……できなくなった、と言うべきか。

 世話役は楼の弟の子供が継いだが、私はそのほとんどを拒絶してひたすら楼の傍で座っていた。

「楼」

 楼は答えない。眠っている。

「楼、起きろ」

 楼は答えない。それでも少し目を開いた。

「何か読むか? 私が読み聞かせてやろう」

「……」

「特別なのだぞ。私が人に尽くすなど」

「……」

「楼」

 ぱさついた白髪を撫でる。かつて私が泣いたとき、楼がそうしたように。

「楼、聞こえておるか?」

「……」

「……何か言え」

「……」

「何か、言ってくれ」

「……て、っせん、さま……」

 乾いてしわがれた、途切れ途切れの声。

「楼、何か欲しいものはあるか? 言え、すぐに持ってきてやる。なんでも言え、楼」

「……水を……」

「分かった、少し待っていろ」

 部屋を飛び出して、廊下を駆けている最中にふと頭をよぎる考え。

 ……持っていく水に、少量の私の血を混ぜたなら。

 そうすれば──楼を、延命できるのではないか?

 水を汲み、一滴だけ私の血を垂らす。これで、これで──。

 ぐるぐると思考と思惑を巡らせながら楼のもとへ戻り、そっと水を差し出した。

「水だぞ。私が手ずから持ってきてやったのだ、感謝しろ」

「有難く……」

 楼は落ちくぼんだ目でこちらを見て、その目を薄く細めた。

「……申し訳、ございませぬ……」

「楼……?」

「その、お水は……いただけません……」

「な、なぜだ。楼──」

「いくら老いぼれたとはいえ……八十年余り、貴方様のお傍に、置いていただいた身なれば……貴方様のお考えは……多少なりとも分かります……」

 涙が頬を伝う。その涙は私の顎まで至り、落ちて、私の血が混じった水の中へ落ちた。

「なぜ……なぜだ、楼! 死ぬのが怖くはないのか!」

「いいえ……天に昇り……鉄仙様の父君にお会いできる……そう思えば、恐怖など……」

「嫌だ、嫌だ嫌だ死ぬな! 忘れたとは言わせんぞ、お前は! ずっと私の傍に居るのだ! 死ぬな! 死ぬな!」

「……」

「──死なないでくれ、楼……」

「もう……楽に……」

 楼の手を取り泣き叫ぶ私に、楼は老いた声で言う。

「……願わくば……貴方様の御手で……引導を渡していただきたく……」

「そんな、そんなこと──」

「病に負けたのではなく、貴方様に送られたとあれば……この死も……誉あるものとなるでしょう……」

「馬鹿者! 良いから私の血を飲め、そうすればお前は──」

「……鉄仙様」

 楼は、弱々しく私の頬に触れた。

 奇しくもその儚い感触は、かつて私を打ったあの小さな拳に似ていた。

「これが、楼めの最初で最後の願いとお心得くだされ」

「……っ!」

「鉄仙様……何とぞ……」

 涙が止まらない。

 楼はしわくちゃの顔で微笑んだ。

 私は泣いているのに、楼は笑っていた。

 ……私は。

 そっと、楼の首に指を絡めた。





 どやどやと人が入ってくる。やはり見分けなどつかない。

 どれが今の世話役か分からないから、私は楼の方へ向き直り呟いた。

「楼ならば、逝ったぞ」

 誰も何も言わない。楼も何も言わない。

「……人よ。頼みがある」

 冷たくなった楼の頬を撫でて、私は初めて人に頭を下げた。

「私を、楼と共に埋めてくれ」

 やっと分かった。

 神が、なぜ私に唯一たれと命じたか。

 父が、なぜ私に永遠の体を与えたか。



 ──温かかったからだ。

 唯一のものがこの世にあるだけで、代え難き温みがあったからだ。

 だから神は私を唯一とした。

 ──失いたくなかったからだ。

 特別を、唯一を失うことは、神でも耐えきれぬほどに痛いからだ。

 だから父は私に永遠を与えた。

 ならば。

 私は、楼と共に眠ろう。

 ずっとお前と共に在ろう、私の──唯一の人よ。




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