第62話 戦いの準備

 冒険者ギルドが保有している職員用の寮。キュリーが使用しているのは、物置代わりに使っている小さな部屋だけではない。

 今、ジェシカと2人で媚薬を調合している大きな部屋も使用している。キュリーは単に調合室と呼んでいるが、四人家族でも広々と暮らせるだろう広さがある。


 謎の薬品や材料、調合器具などで本来の広さを感じられない調合室の中で、キュリーはドラゴンの鱗をゴリゴリとすりつぶし、粉末にしている。

 ジェシカはキュリーから渡された粉末を、別の粉末が入った小さな茶色い袋に、決められた量を入れていく。


「あ、やべっ」


 これまでの小さな袋ではなく、大きな袋に取りかかったところでジェシカの手元が狂い、言われていた量の倍ほどの粉末を入れてしまった。


「どうしました?」

「ごめん、入れすぎたかも」


 少しキュリーの眉間にシワが寄ったが、すぐに元に戻る。


「どれくらいですか?」

「たぶんだけど、倍くらい?」

「倍ですか…まあ、その大きな袋は娼館に卸す用なので、多少効果が上がっても別にいいでしょう」


 娼館に卸す用の媚薬が多少濃くなっても構わないだろう判断し、修正することなく次の作業に取りかかる。


 そんなことよりも、ジェシカはついこの間まで足し算すら怪しかったはずだ。

 それなのに、いつの間にか会話の中で普通に倍という言葉を使っている。


「その倍という言葉、ルイスさんに教わったんですか?」

「ん? うん、他にも色々習ってるけどな」

「色々というと?」


 ジェシカはよくぞ聞いてくれたという表情を浮かべた。

 最近、ルイスから勉強を教わるたびに天才だとほめられている。何度も何度も天才だと言われ、ジェシカもその気になっている。

 事実そうなのだろう。たかだか数ヶ月で高校の学習区分まで到達し、場合によっては大学でしか習わないようなことまで教わっている。


 ルイスはこの世界の国語社会英語にあたる科目を知らないため、数学と理科しか教えていないが、それでも圧巻の学習スピードだ。


「算数は今は微分だろ?理科は航空力学だな。でも航空力学はおっちゃんもちょっとしかわかんねぇって言ってた。なんか鳥人間コンテストとかいうのに出たことあるんだって」

「ビブン?コウクウリキガク?」

「キュリーばあは知らねぇの?」

「初めて聞きました。少し内容を教えてもらってもいいですか?」

「別にいいぜ」


 キュリーは手を動かしながら、ジェシカの授業を聞いた。

 人に教えるという行為が楽しいのか、ジェシカは一生懸命キュリーに航空力学を教えた。


「魔法を使わずに空を飛べるんですか?」

「聞いてただろ? 飛べるんだって」

「ちょっと信じられませんね」

「まあそうだよな。私も信じられねぇって言ったら、おっちゃんが今度孤児院で作ってくれるって」

「同席しても?」

「いいんじゃね?」


 キュリーは信じられない。

 魔法を使えば空を飛ぶことなど簡単だ。しかし、人間を何百人も乗せて金属で作った物が浮くことなど出来るはずがない。どれほどの重量になり、どれほどの魔力が必要なのか想像すらできない。

 それなのに、ジェシカの話を聞けば聞くほど、可能かもしれないと思えてくる。


 ルイスは、ジェシカに何を教えているのか。将来どうなって欲しいのか。理解に苦しむ。


 2人が、この世界ではルイスしか理解できない会話をしながら媚薬を製造し、出来上がった媚薬を受付嬢が持っていく。

 もうすでに出来上がった媚薬から販売を始めているようだ。


 この部屋まで音は届かないが、冒険者ギルド周辺のボルテージは最高潮になっている。



 ーーーーー



 ルイスは冒険者ギルド内の人混みをかき分け、公衆浴場に向かう。

「ドラゴンを!私にドラゴンを!」という数多の怒号を聞き、ルイスの鼻の穴が僅かに膨らむ。


 これほどまでにドラゴンという生物は人気なのか。

 ドラゴンというファンタジー生物に慣れっこであるだろう世界の住人であっても、やはりドラゴンはかっこいいのかと納得し、心持ちルンルンと跳び跳ねるように公衆浴場までの道を進む。


 公衆浴場にたどり着いたルイスの目に入ったのは、今まで見たことの無い人数が集まっている湯船だ。


 女湯はいつも通りといったところだが、男湯が半端ではない。

 大きな湯船はまるで中国のプールのようだし、体を洗うスペースは石鹸の泡で真っ白になって人の姿を確認するのも一苦労だ。

 しかも、いつもなら会話が飛び交い、喧騒に包まれているところだが、雑談も無く黙々と、いつもよりも念入りに体を洗っている。


 今の公衆浴場は、1日の疲れと汚れを落とす朗らかな場所ではない。

 これから戦場へと赴く戦士達の準備場所なのだ。


 独り身の男は、気になるあの子が自分の飲み物にこっそり媚薬を盛るのに期待する。

 彼女がいる男や新婚の男は、いつもの夜が何倍も激しくなるのを期待する。

 長い結婚生活を過ごしている男は、久々に過ごすことになるだろう夜に期待する。


 今、公衆浴場にいるということは、戦場に向かっていくということに他ならない。

 ここにいる男は皆、戦士なのだ。


 そんな異様な雰囲気に飲み込まれるように、ルイスも黙々と体を擦った。


 ルイスは知らない。

 ルイスもまた、戦場に赴く戦士であることを。


 ルイスは知らない。

 ドラゴン媚薬の、恐ろしいほどの効果を。


 ルイスは知らない。

 ルイスを狙う女が、街中の人々から応援されていることを。


 ルイスは知っている。

 その女には、抵抗することすら出来ないことを。

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