ゴールのないマラソン大会
楠秋生
第1話
「ゴールのないマラソン大会があるんだけど、出てみない?」
同僚でランニング仲間の萌が昼休みに声をかけてきた。
「マラソン大会なのにゴールがないってどういうこと?」
食後のコーヒーを飲んでいた千穂は、不得要領な顔で首を傾げる。
「ワールドランっていうんだけど、スタート三十分後にチェイサーカーが追いかけてくるんだって。その車に追いつかれたら、そこで終了」
「面白そう! 鬼ごっこみたいなものよね」
千穂が思わず身を乗り出すと、萌はけらけら笑った。
「千穂はくいついてくると思ったんだよね。もっと面白いのはね、この大会、世界同時スタートなの」
「意味が分からないんだけど」
「だよね。私も驚いたもん。あのね、世界三十三か国三十五会場で同時にスタートして、最後まで走り続けるのは誰かを競うんだって。中継で繋がっていて、どこの国のランナーが何キロ地点を通過したとかライブ配信されるみたい」
「ものすごい規模の大会じゃない! 行きたいけど、どこであるの?」
「それがね」
萌は顔いっぱいに嬉しさを溢れさせ、椅子を引っ張ってきて隣に座る。
「驚かないでよ。ここ、高島市で開催されるの!」
「ええ? なんでこんな田舎でそんなビッグな大会があるのよ」
高島市は滋賀県北西部にあり、山と琵琶湖の美しい町だ。ここで生まれ育った千穂は自然に溢れ、人情の厚いこの町が大好きだけれど、なんといっても田舎。そんな大きな大会が開かれるのは想像もできなかった。
「脊椎損傷治療法の研究のためのチャリティーマラソンでね、『走れない人のために走る』ってキャッチフレーズで、車いすの人も参加できるようになっているの。それで、踏切や坂のない100キロのコースをとれるっていうんで候補にあがったみたいよ」
「なるほど。そういう理由があるのね。でも嬉しいね。たくさんの人が来たら、高島の魅力、いっぱい知ってもらえるものね」
ゴールデンウイークの大会当日、今津総合運動公園は人で溢れかえっていた。都会での大きなマラソン大会とは比べ物にならないが、普段人の少ないこの町では随分多く感じる。
陽が傾き、夕闇が降りてくるにつれ、人々の熱気は高まってくる。世界同時ということで、日本の出走時間は夜の八時になのだ。夜ランはよくやっていても、大会となると雰囲気も違うだろう。
受付でゼッケン一式が入った袋を受けとる。大会プログラムにスポーツドリンク、蛍光のたすきなど、いろいろ入っている。
「あ、ヘッドライトも入ってるね!」
千穂と萌が用意していたものよりコンパクトなので、それをつけることにする。
「どきどきするねぇ。何キロくらい走れるかなぁ」
「チェイサーカーが出発するまでの三十分で七キロくらい? そこから時速十五キロで追いかけてくるんだよね。私は十五キロ目標かな」
「じゃあ私は十キロ!」
スタート直後から萌とはすぐに離れてしまう。彼女はいつも全力投球だ。もちろ千穂も本気で頑張るつもりだけれど、最初から飛ばしすぎると後が続かない。十キロ以上走るならペースはゆっくりめにしておいた方がいいだろう。遅すぎると追いつかれるから、適度なスピードは必要だけれど。
周りには千穂と同じくらいのペースながらも一生懸命走っている人もいれば、同じTシャツにハチマキでおしゃべりしながら走っている人たちもいる。……おしゃべりして笑いながらと同じペースというのはちょっと情けないな。千穂はもう少し練習増やそうと心に決めた。
三キロを過ぎた辺りから、だんだん人がまばらになってくる。真っ直ぐ続く田んぼ道は真っ暗で、沿道の人垣も途絶える。自分の呼吸とカエルの大合唱しか聞こえない。やっとさしかかった曲がり角で後方に視線をやると、ランナーの額につけたヘッドライトが点々と連なってちらちらと動き、ホタルの光みたいでとても綺麗だ。
集落に近づくと、村人たちがちらほらと沿道に出てきてくれていて、声援を送ってくれる。暗くて誰がいるのかもわからないけれど、温かい声はしっかりと届く。
「頑張って~」
可愛らしい小さい子どもの声も聞こえてくる。今日は夜更かしさせてもらっているのかな。パジャマ姿のようだ。街灯の下、手を振ってくれているのは背の曲がったお年寄り。それからお母さんと子どもたち。ハイタッチしてくる人もいて、元気をもらえる。普通のマラソン大会より応援が心に響いてくる気がする。
よく知っている町なのに、暗闇なのと疲れからか、どの辺りを走っているのかわからなくなった。頭の中で地図を描いても、よくわからない。腕時計を見ると、もうチェイサーカーの出発時間だ。見えるはずもないのに後ろを振り返ってしまう。そこからなんとなくペースを上げてしまう。今日はいつもよりも調子がいいようだ。
「千穂ちゃん頑張れ!」
集落のすみから知っている声が聞こえてきて、千穂の頭にやっと地図が描けた。この先の角を曲がれば、真っ直ぐ琵琶湖に向かっていくはずだ。
と、前に見覚えのあるポニーテールが走っているのが見えた。萌だ。かなりペースが落ちていて、すぐに追いつく。
「ちょっとオーバーペースだったみたい。先に行って。……後で追い上げるからね」
そう言って、手でしっしっと追い払う仕種をする。千穂は少し迷ってペースを落とした。怒るかと思ったが、萌は肩をすくめて言った。
「まあいいか。お祭りみたいなものだし。そのかわり、チェイサーカーが見えたら、一緒に猛ダッシュで逃げよう」
エイドステーションで完全に止まって給水する。他の大会なら走りながらとるところだけれど、ゴールがないだけにあとどれくらい走ればいいのか見当もつかないから、一休みだ。
「結構、走ったんじゃない? もうすぐ湖岸だと思う」
「湖岸まで行ったら、十五キロまですぐじゃなかった? 私、目標達成してるんじゃない?」
「うん、千穂、今日すごくいい走りしてると思うよ。あたしは失敗しちゃった……ってあれ、チェイサーカーじゃない!?」
まだかなり遠いが、直線だから見える。チェイサーカーに追いつかれたのだろう、こちらを向いているヘッドライトの灯りが、一つ、また一つと上下の動きを止め、消えたり下がったりする。横を向いたりしゃがんだりしているのだろうか。
「逃げよう!」
千穂と萌は同時に言って駆け出した。少し休んだ、のでまた走れた。二人並んで少しハイペースで走る。後ろを見るのは怖いので、ひたすら逃げる。
「湖岸だ!」
「十五キロまでは行こう!」
角を曲がり湖岸通りを北上。千穂は曲がるときに気になって、チェイサーカーの位置を見てしまった。あと百メートルというとことか。
「ラストスパートは、好きなところでしよう」
声をかけると、萌も後ろをチェックして頷く。
先にスパートをかけたのは萌だった。すぐに背中が遠くなる。足が重い。早すぎるスパートは自滅しそうだ。
「キャッチャーカー来まーす」
千穂は声が聞こえてからスパートをかけた。思いのほかすぐに迫ってくる。逃げたいのにもう走れない。ギリギリ最後で逃げまくろうとか思っていたけど、そんなに甘くなかった。あっけなく捕まって終了。
「前方に歩いてください」
キャッチャーカーの人から言われ、ゆっくりと歩いていく。キャッチャーカーが、一人、また一人と追い抜いていっている。
萌は五百メートルほど先で待っていてくれた。
「楽しかったねぇ」
バスでピックアップしてくれる地点まで二人並んでのんびりと歩く。琵琶湖から吹き寄せる風が火照った身体を優しく撫でる。走り切った疲れとお祭りのあとの気怠さが心地よい。暗闇をぽつりぽつりとおしゃべりしながら歩き、二人は余韻を楽しんだ。
ピックアップバスで会場に戻ると、スクリーンに現在のトップが映し出されている。女子はこの高島を走っている日本人選手が世界のトップのようで、会場は盛り上がっていた。
「すごい! 世界のトップがここでうまれるかもしれなんだ!」
疲れも吹っ飛んだ二人は、彼女がゴールするまで応援することにした。
「来年、またチャレンジしたいね」
「目標二十キロ!」
「練習がんばらなきゃね」
日本の様子と各国の様子が順に映し出されるスクリーンを前に、目標を立てる。
「あ! 二位だった人、捕まったよ! 日本が一番だ!」
「でも、まだ終わらないんだよね。彼女が捕まるまで」
「自分がトップって知ってるのかな」
「あとは自分との闘いだよね」
会場中が、彼女が一キロでも二キロでも多く走れるように応援した。結果、五十六、三三キロというすごい記録を残した。
「フルマラソンより十キロ以上長いってどんだけよ~」
千穂は称賛のため息をもらした。
「私たちは私たちの目標を目指して頑張ろう」
「そうだね。ゴールはそれぞれの背中にあるんだもんね」
「ゴールがない、どころか後ろから追いかけてくるなんていう面白いレース、自分の限界を目指して楽しまなきゃね」
千穂と萌は、缶ビールで乾杯した。
ゴールのないマラソン大会 楠秋生 @yunikon
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