きっと私は何者にもなれない

赤オニ

きっと私は何者にもなれない

 プツリ。

 ひんやりとした刃先が肌にしみ込んで、ぷっくりと丸い玉が浮かび上がる。

 赤色の玉はそのまま肌の上を滑り、線を描いて床に敷かれたトイレットペーパーの山に落ちた。

 ポタリ、ポタリと斑点が白を汚し、ふんわりと重なったトイレットペーパーが重みで崩れていく。

 肌に出来た真新しい傷に痛みは無く、中の肉が空気に触れてスースーするだけだった。

 1回、2回、3回。

 何度も同じ傷に刃先を当てる。

 刃物か肌に食い込む度、ブチブチと肉が千切れる感触が手に伝わってくる。

 口角が上がるのが分かった。

 ーー気持ちいい。

 肉を切る度、赤黒い血がティッシュに落ちる度、私の背中をゾクゾクと快感が走り抜ける。


 時計を確認する。

 10分だ。そろそろ限界だろうか。

 あまり長く居ては、怪しまれる。

 固まり始めた血液をゴシゴシと拭い、傷口にギュウっと押し付ける。

 トイレットペーパーの山を血まみれにして、しっとりと濡れたソレをつまみ上げて滴る前に素早く便器に落とす。

 クルクルと回りながら流されて行く赤い塊を眺め、ふぅ、と息を吐き出す。

 ポケットにねじ込んだガーゼと医療用テープを取り出し、少し血がにじむ傷口に当ててテープで固定する。

 軽く押して染みてこないのを確認し、トイレを出た。


「そろそろ学校行かないと」

「うん」


 母親の声に急かされ、通学用のリュックを背負って玄関の扉を開ける。

 冬の空気はキンと冷えていて、肺がブルリと震えた。

 学校指定のタイツは肌色で、私は黒が良かったのに、と不満を漏らした。

 しかしスカートにむき出しの足は寒い。靴下は足首までしかダメだと決まっている。

 仕方なく履いているタイツは厚い物を選んだから、余計にダサく思えた。

 足を動かし、玄関から1歩外へ出た。


「行ってきます」


 バタン。暖かな空気が扉が閉まると同時に消え、名残惜しく感じながらも歩き出す。

 寒い時、つい息を吐いて白いかどうか確認してしまうのは幼い頃からの癖のようなものだ。

 はぁ、と吐き出した白いモヤが空に消えていくのを眺め、重たい足を動かす。

 学校は好きじゃない。

 いじめに遭ってるとか、そんな大層な話じゃないけど。

 なんとなく、好きとは思えなかった。

 勉強は嫌いじゃないし、友達もいる。

 何が不満なのか自分でも掴みかねたまま、去年の冬から続いている自傷行為に悩んでいた。


 最初はありきたりな手首だった。

 自傷行為と言えばリストカット、という漫画で得た知識が頭の隅にぼんやりと浮かんでいた。

 漫画の中で主人公は泣きながらカッターを手首に当てていた。

 友達に裏切られ、壮絶ないじめに遭い、痛みと苦しみに耐えながら肌を切り刻んでいた。

 自分の体に1つ傷が増える度、満足感のような快感が脳を支配した。

 もちろん最初は痛かった。

 刃先を手首に当てただけで、これを滑らせたら私は死んでしまうんじゃないかという恐怖に襲われた。

 それでも、ゴクリと唾を飲み込んで震える手でそっと刃先を引くと赤い線が肌に浮かび上がった。

 ピリピリとヒリつく傷に、ゾクリと背筋が震えるのを感じた。

 ゴクリ、もう一度唾を飲み込んだ。


 あと1回だけ。

 あと1回やったら止める。

 そう決めて、もう一度だけカッターを握った。

 今度は躊躇いなく引けた。

 前回よりも深く、血が滴る感覚に口角が上がった。

 次はもっと深く切れるかもしれない。もっと沢山の血が出るかもしれない。

 人と違うことをしている自分が特別な何かになったような気がして震えた。

 ーー私は他の人とは違うんだ。

 そんな優越感が体を駆け巡ったのだ。


 手首は目立つ。

 そう気付いてから、他に切る場所を考えた。

 半袖を着てもバレない場所。

 暖房で暖まった部屋で半袖を着て、鏡の前に立って考える。

 腕を上げたら? 体をよじったら?

 どう動いても見えない場所を必死で探した。

 お腹、胸、服で確実に隠れる場所と言えばそのぐらいだ。

 でも、切りづらいし手当てがしにくい。

 腕はダメだ、半袖を着たら見えてしまう。

 ああ、でも二の腕は? ノースリーブを着なければ見えないし、ちょっと切りづらいけどお腹や胸よりは手当てもしやすいだろう。

 あとは足だ。夏でもショートパンツを履くことはないから、太ももなら隠れる。

 二の腕と太ももにしよう。

 リストカットと違って手首ではない場所を切るという発想か、他の人との違いを感じた。


 それから、自傷行為は続いている。

 カッターを握ると安心する。

 ありふれた大勢の中で自分だけ1人集団から抜けたような、他の人には無い何かを私は持っているのだと感じた。

 学校に着いて、友達に挨拶をする。

 いつも通りの日常。繰り返される1日が始まる。

 授業が始まり、ノートをとっている時、ヒヤリと冷たい何かを感じた。

 今朝切った二の腕だ。血がガーゼから染み出たのかもしれない。

 幸い制服は冬服の紺色で、すぐにバレるようなことは無い。

 トイレに行ってガーゼを貼り直せばいい、大丈夫、落ち着け。

 ドクドクと早る心臓の音が聞こえ、すぅはぁと深呼吸を繰り返す。

 大丈夫、次の休み時間にトイレに行こう。


 ソワソワと落ち着かない気持ちで授業を乗り越え、終了を告げるチャイムが鳴ると同時に席を立ち上がった。

 急いでトイレへ向かおうと足を動かすと、廊下近くの席に座る友達に呼び止められた。

 昨日のドラマの話題を振られ、ごめん見てないんだと笑って誤魔化し何とか切り抜けようとした時。

 友達の手が二の腕に触れた。

 ーーあ、ヤバい。


「あれ? なんか濡れてーーえ!? これ血じゃない!?」


 友達の手にうっすらと赤いものが付き、顔から血の気が引く。

 慌てた友達が先生に伝え、私は保健室に連れて行かれた。

 どうしたの、何があった、責め立てるように大人から聞かれ、私は俯いて小さな声を漏らした。

 自分で切りました、と。

 先生は真っ青な顔になり、何でそんなことをするんだと今度こそ私を責めた。

 いじめがあったのか何度も聞かれ、私は静かに首を横に振る。

 気味の悪いものを見るような目で見られ、先生は親に連絡するからと告げて保健室を出て行った。


 自傷行為が悪い事だと分かっている。

 自分の体を傷つけるなんて異常だと自覚している。

 それでも、どうしようもなく切りたくなるのだ。

 友達と3人で居た時に2人が並んでいるのを後ろから見ている時、友達の友達が輪に入ってきて1人黙って笑うしかなかった時、自分がどこにでも居る平凡で何にもなれないちっぽけな人間だと気付いてしまったから。

 私の代わりは誰でもなれるのだと、そう知った時トイレに駆け込んで切った。

 体を傷つけると、私は特別なんだと錯覚出来る。

 他の人には出来ないことが出来るのだと、満足感に浸れるのだ。


 大人には分からない。

 大人はいつだって正しくて、私たち子供を導いてくれる。

 だから、自傷行為なんて馬鹿なことは止めなさいと私を諭すのだろう。

 違う。

 いじめじゃない。死にたいわけでもない。

 ただ、特別な存在になりたいだけなのだ。


「何かあったのならお母さんに聞かせて。怒らないから、ね?」


 母親の、機嫌を取るような猫なで声が気に触る。

 何が分かると言うのだろう。

 私のこの気持ちが、どれだけ虚しくて惨めったらしい気持ちなのか、分かるはずがない。

 無言で俯く。 

 何を言っても、母親の求める自傷行為をするほどの酷い話なんて出てこないのだから。

 じっと黙っている私の耳に、母親の涙声が届く。


「どうして何も言わないのよ、何で自傷行為なんて……」


 自分の娘が体を切るなんて異常者になってしまったことを、悲しんでいるのかもしれない

 何も言えなかった。

 母親が泣いているのに、罪悪感ではなく分かってもらえない絶望に包まれている自分が嫌になる。

 こんな醜い私だから、きっと何者にもなれないのだろう。

 家に帰って、カッターを持ってトイレに入る。

 もうどうでもよかった。見えるからと気にして切らないようにしていた手首に刃を滑らせる。

 何度も、何度も肉を切る。

 血が床にボタボタと落ちる。

 片付け大変だろうな、血って落ちにくいんだよね。

 なんて、場違いな感想を抱いた。

 

 視界がにじむ。

 何度も刃先で肉を抉りながら私は泣いていた。

 いじめに悩み、苦しんだ末泣きながら手首に刃を当てた悲劇の主人公になったような気分になって、何だか心地が良かった。

 何者にもなれない私は、きっとその他大勢にすらなれなかった。

 

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