第35話 帰宅
結論から言うと、夕刻になるまで婚約者とやらが来ることはなかった。
何か事情でもあったのだろうか、と疑問に思うけれど、とにかく来ない相手をずっと待ち続けるわけにもいかない。既に昼という約束を、夕刻まで待たされたのだ。義理は果たしたと考えていいだろう。
それと同様に、ヴィクトルのファンの娘とやらも来なかった。まぁ、こちらは来ても来なくてもどっちでもいいため、多分予定でも入ったのだろうと頷いておくことにした。このあたりの文句はルートヴィヒに言って、取り分を八割に多く奪ってやろう。
「……帰るか」
「はい、お義兄様」
結局、いつ婚約者が現れてもすぐに射抜けるようにと張り詰めていたのだけれど、徒労だった。
昼食と夕食を両方ともこの店で注文し、さすがに長居しすぎだと反省して会計を済ませてから出てきたのである。
まだ夜というには若干早い時刻であり、まだ薄暗いくらいのものだ。
「縁談の件、親父にどう報告するかねぇ……」
「お相手の方が、来なかったと言えばいいのでは……」
「俺が一緒だぞ? お前が何かやったんだろうが! とか怒られそうでな」
「わ、私がちゃんと説明しますから」
「そうしてくれると助かる」
まぁ実際のところ、婚約者は殺すつもりだったけど。
結局来なかったので、リクハルドが罪人となったわけではない。
レイルノート家までの道をのんびりと二人で歩きながら、するのはとりとめもない話だ。
「でな、結局ヴィクトルと二人で飲みに行くと、俺が記憶失くすんだよな。だから毎回、あいつが俺の部屋まで運んでくれるんだ。おかげで会計をいつもヴィクトル任せにしてしまってな」
「お、お二人で、飲みに……!」
「ああ。それでな、今度は俺が出すから、って毎回言うんだけど、会計のときには俺倒れちまってるから払えないんだよな。あいつにどんだけ借りが溜まってるか分からないくらいだよ」
「部屋まで……運ぶ……!」
以前に見た絵姿からするに、ヴィクトルのことも一応好きではあるのだろう。あまり好きになられても困るが、妹の好む話題であるならばどれほどでもヴィクトルのことを話してみせよう。
だが、何故かクラリッサが妙に食いつく部分があったりなかったりする。どういう基準なのだろう。
「あとは……そうだな。この前バルトロメイと一緒に風呂に行ったんだよ」
「お、お風呂……!?」
「ああ。中央通りにある『テオロックの湯』って知らないか? 合同訓練が一緒だったから、たまにはと思って誘ってみたんだ。バルトロメイ、めちゃくちゃ毛深いんだよ。胸毛なんか肩ぐらいまであるんだぜ」
「あ、新しい境地が……!」
リクハルドにしてみれば笑いを誘ったつもりなのだけれど、何故か息が荒くなっている。
さすがに、男二人で風呂に行ったという話は刺激が強かったのかもしれない。やはり、風呂となるとダイレクトに男の裸を想像してしまうのだ。男に免疫のないクラリッサには、あまりするべきでなかったのだろうか。
とーーそんな話をしているうちに、レイルノート家へと辿り着く。
最愛の妹と二人で話しながら帰っている時間の、どれほど幸せだったことか。できることならば、実家をスルーして向こうに行ってまた戻ってきたいくらいである。
まぁ、仕方ない。
ひとまずレイルノート家の門を開き、その扉を開く。
「お帰りなさいませ、お嬢様、坊ちゃま」
「はい。ただいま戻りました」
「いい加減坊ちゃんはやめてくれよ……」
「随分遅かったようですが、何かあったのですか?」
扉を開いて戻ってきたクラリッサとリクハルドを迎えたのは、老齢の執事だった。
リクハルドにしてみれば、昔からよく見ている顔だ。現在になっても坊ちゃんと呼んでくるので、そろそろ呼び方を変えてほしいと真剣に願っている相手である。
「あー……外でクララに偶然会ってな。話し込んでいたんだ」
「そうでしたか。お二人には、戻られたら部屋に来るよう旦那様が仰せです」
「あいよ」
何の用なのだろうか。
多分今日の縁談のことなのだろうけれど、それならクラリッサだけ呼べばいいはずなのに。
疑問には思うけれど、特に何も聞くことなくクラリッサと共に屋敷の階段を登る。
「あ、あの、お義兄様」
「どうした?」
「お、お義父様は、一体何を聞かれるのでしょうか……?」
「恐らく、今日の縁談のことだろう。まぁ、基本的には俺が説明をする。クララは、俺の説明が足りていなかったと思う部分を補足してくれると助かる」
「は、はい」
どことなくクラリッサが怯えているのが分かる。
これほど怯えているクラリッサに対して、もしも怒鳴り声をあげるような真似をするのであれば、その瞬間に首を絞めよう。
そんな風に考えながら、アントンの部屋の前まで到着すると。
「遅い! 遅すぎる! 本当に大丈夫なのか!?」
「まぁ、兄上のことですから問題ないでしょう」
「お前の問題ないほど信じられないものはない!」
「失礼な」
中から、そんな話し声が聞こえた。
一人はアントンである。随分と焦った様子で、恐らく部屋の中をうろうろしているのだろうーーそれが、扉越しにも分かった。
問題は、もう一つの声。
それはーーリクハルドの愛する妹。
「ヘレナぁっ!」
ばんっ、と大きく扉を開く。
その中にいたのは、落ち着きなく歩き回っているアントン。
そして、その前のソファで背もたれに大きく体を預けている、ヘレナだった。
「おや。遅いお帰りでしたね、兄上」
「リクハルド、貴様遅いではないか! クララに何をしていたのだ!」
「どうしてここにいるんだヘレナ!?」
アントンの言葉を完全に無視して、久しぶりのヘレナへと近付く。
だが、近付くだけだ。それ以上のことは何もしない。
普段ならば、思い切り抱きしめに向かうのだけれど。
「驚いたでしょう、兄上。まずは、座ってください。色々と、ここに至るまでの経緯を説明しましょう」
「いや、そりゃ驚いたが……ここに至るまでの経緯?」
「ええ。今日まで情報を封鎖していましたからね。最後の種明かしは私がと」
「……?」
ヘレナの言っていることの、意味が分からない。
リクハルドはただ首を傾げながら、クラリッサと共にヘレナの前となるソファへと座った。
気を利かせてのことか、ヘレナの侍女であろう褐色の少女がそんなリクハルドとクラリッサの前にお茶を置く。
「兄上、まずはどう思ったかお聞かせください」
「いや、だから何を……?」
「いえ、兄上の婚約者がクラリッサだった件ですが」
……。
……。
……。
目を見開いて、暫く硬直する。
驚いているクラリッサを見て。納得しかねるとばかりに腕を組んでいるアントンを見て。ふふん、とドヤ顔をしているヘレナを見て。
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
リクハルドのそんな叫び声が、レイルノート家の屋敷に響き渡った。
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