第17話 後悔の仕事場

 翌日。

 アルベラの一撃で倒れたリクハルドが目覚めたのは、レイルノート侯爵家から職場である黒烏騎士団の駐屯所へ向かうにあたってギリギリの時間だった。起こしてもくれなかった父に「自業自得だ」と言われながら慌てて屋敷を出て、近くの乗合馬車を使って始業時間ぴったりに駐屯所へと辿り着いた。どうにか、そのおかげで遅刻だけは回避することができたことは僥倖である。

 ぜぇ、ぜぇ、と肩で息をしながら、普段通り副官も補佐官もいない執務室へと入る。そしていつも通り、そこにいるのは銀狼騎士団の副官であるステイシーだけだ。


「おはようございます、将軍」


「……ああ」


「随分遅かったですね。てっきり休むのかと思いましたよ」


「俺も、できれば休みたかった……」


 将軍の椅子に座ってから、そう項垂れる。

 結局、時間がなくてクラリッサと何も話すことができなかった。アルベラの一撃が綺麗に決まったのもあるが、それだけリクハルドも疲れていたのだろう。ぐっすりと寝てしまっていた。

 ヴィクトルにあれほど言われたというのに、屋敷に戻ってアルベラ以外目に入ることのなかった自分を恨みがましく思う。幼い頃からずっと側にいた妹に先に食指が働いてしまうあたり、既にリクハルドのシスコンは病気の域を超えているらしい。


「……」


「……」


 目の前に積まれた書類を、そのまま無言で処理し始める。

 書類仕事をしていれば、とりあえず目の前のことから目を逸らすことができる。クラリッサに対してどう接するべきなのか、リクハルドの本当に気持ちは何なのか、そんな複雑な自分の心境から逃れることができるのだ。

 いや――言い訳か。

 何もしていなければ、人間は不安になる。何もしていない時間が長ければ、それだけ悩んでしまう。比べ、仕事さえしていれば無心でいられるのだ。ある意味現実逃避でしかないが、それでも気を落ち着かせるためにと考えれば生産的だ。

 軽い溜息を吐きつつ、次々と書類を処理してゆく。


「なんだか今日は元気がありませんね、将軍」


 だが、そんなリクハルドの複雑な心境も。

 どうやら、この聡い副官には読まれているらしい。


「……そう見えるか?」


「ええ。むしろ、自分が普段と変わらない自覚があるのですか?」


「……ねぇな」


「差し支えなければ、事情を伺っても?」


 ステイシーも目の前の仕事をこなしながら、目を合わせることなく聞いてくる。

 実にありがたい対応だ。あくまで仕事の片手間に、というスタンスであれば、多少言いにくいことでも言える。これが相談に乗ります、などとぐいぐい押されると、どうしても拒んでしまうだろうし。そのあたりのリクハルドの性格をよく分かっているのだろう。

 リクハルドは、大きく溜息を吐く。


「……妹に嫌われた」


「いつものことではありませんか」


「……言うな」


 別段、リクハルドに自覚がなかったわけではない。

 だが、どう考えてもリクハルドの三人の妹――ヘレナ、アルベラ、リリスはリクハルドを疎んでいるように見える。そのあたりも脳髄の絶妙な妹フィルターが「愛とはそういうものだ」とか謎の変換をしているおかげで、正気を保っていられるのだけれど、

 実際に、リクハルドがどれほど高価な贈り物をしようと、三人からはお礼の文くらいしか届かないし。


「その……実の妹じゃ、ない」


「……そうなのですか?」


「ああ。つい先週くらいに、新しく養子に来た妹でな……」


 ぼつぼつと、リクハルドは事情を話す。

 自分が宮中侯を継がない代わりに、レイルノートの屋敷に新しく養女が入ったこと。

 その養女がとても強く、幼く、リクハルドを兄のように慕ってくれていたこと。

 そしてリクハルドも、クラリッサのことを妹として心から可愛がっていたこと。

 事情にしてみればほんの三行に過ぎないそれを、クラリッサがどれほど可愛らしいかの美辞麗句が八割がたを占める言葉によって、何故か午前の休憩時間に及ぶまで話すのもリクハルドの悪癖である。


「……ええと」


「本当に可愛いんだ。妹とはこうあれかしとされる全ての要素を兼ね備えたまさに妹オブ妹。兄のことを心から慕う妹というのはまさにこういった妹なのだろうと……」


「ええ、もういいです。よく分かりましたから」


「む……?」


 何故かステイシーが呆れているように見えるのは何故だろう。

 まだクラリッサがいかに可愛いか、リクハルドは話し足りないというのに。


「で、そんな可愛くて可愛くてたまらないパーフェクト妹オブ妹のクララちゃんに嫌われてしまった、と」


「……ああ、そうだ」


「というか不思議だったのですが、将軍は妹であれば血が繋がってなくてもいいのですね」


「愛に血の繋がりは関係ない。妹であればこの世に遍く全てを愛してこそ真の兄だろう」


「はい、あなたが病気であることだけは分かりました」


 実に失礼なことを言ってくるステイシー。

 しかしながら、実に間違っていないために何も言えない。

 リクハルドは溜息と共に、さらに続ける。


「でな……クララと一緒に、妹喫茶に行ったんだ」


「はい、アウト」


「何も言ってねぇよ!?」


「あの店でしょう? 私もドン引きしましたから、クララちゃんがどれほど衝撃だったかは分かりますよ。嫌われます。当然です」


「……」


 確かにステイシーと一緒に行ったことはあるけれど。

 しかし、ステイシーは「個性的なお店ですね」くらいの感想だった。その程度の感想だったからこそ、リクハルドは全く気にせずクラリッサを連れていったというのに。

 ああ、もう、と恨みたくなる。主に自分を。


「でも、別にお前、嫌がってなかったじゃねぇか……」


「いえ、別に私、そういうの慣れてますし。軍にいる女ほど分かってますよ、男がどれだけ欲望の塊なのか。別の騎士団に派遣されたとき、夜営で襲われたことも一度や二度ではありませんしね。そうならないためにも、彼らには存分に歓楽街で遊んでもらいたいと思っています」


「……ぐぅ」


「ですが、貴族の娘とあればそんな耐性などないでしょうね。きっと接客をしてくれる従業員に鼻の下を伸ばしている将軍を見て、幻滅して当然ですよ。まだ十四、五歳でしょう? 白馬の王子様が迎えに来てくれると信じているくらいの年齢ですよ。そんな少女が男のそんな姿を見れば、嫌われて当たり前です。はい、アウト」


「……ぐぅ」


 ぐぅの音は出るけれど、限りなく正論である。

 むしろ、ステイシーにそんな過去があるということを初めて知った。夜営でのそのような暴行は明らかに軍法会議にかけられて然るべきである。きっと主犯は既に断罪されているのだろう。軍はそのあたり、非情なまでに厳しいのだ。


「まぁ、将軍もこれを機にシスコンを卒業したらどうですか?」


「俺から妹を取って、何が残るんだよ!」


「いえ、一応ここに適齢期の女がいたりしてるんですけどね」


「は? お前……」


 ステイシーのそんな言葉に一瞬戸惑う。

 しかしそんなステイシーは、リクハルドの方をちらりと見もせずに仕事をこなしているために、何も言えない。

 そんな不思議な空気が流れている中で。

 こんこん、と執務室の扉が叩かれた。


「ん……?」


「将軍、失礼いたします!」


「ああ、入れ」


 言葉と共に入ってきたのは、黒烏騎士団の一員である若い騎士だった。

 恐らく伝達に来たのだろう、扉を開いてから直立し、敬礼をしている。それに対してリクハルドが返礼をしてから、騎士は続けた。


「将軍にお客様がいらっしゃいっております!」


「誰だ?」


「俺だ」


 ぬっ、とその後ろから現れる男。

 濡れているようなぼさぼさに伸ばした長い黒髪に、もう何日も剃っていないのだろう無精髭。着ている軍服も決して清潔とは言えず、しかも煙草を咥えたままだという限りなく失礼な姿である。

 だが――立場上、彼はそれが許される。

 それは、ここにいる者に、彼よりも上に存在する者がいないゆえに。


「よぉ、リクハルド。ちぃっと挨拶に来たぜ。ちょっと表出ろや」


「……ルートヴィヒ」


 それはガングレイヴ帝国八大将軍が一人。

 帝国でも随一の馬術を持ちながら、しかしその勤務態度と女癖の悪さゆえに何度も降格されつつ、しかし彼を超える将軍がいないゆえに常に戻される男。

 その薄汚い身なりから、全く想像のできない地位。


『白馬将』ルートヴィヒ・アーネマン。

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