第19話 グラシャ・ラボラス
せつなが押し負ける。
倒されたせつなの手から、ナイフが滑っていく。
イリエが咄嗟に手にあるナイフを投げ、透明でなくなったルイ(犬)の顔面に突き刺さったが、意味はないだろう。
肉に切れ目が入っただけだ。
内側から押し出されるようにナイフが抜け、地面に落ちる。
間髪入れずにイリエが蹴りを入れたことで、倒されたせつなが襲われることはなかった。
距離を離し、ふりだしの距離感に戻る。
二対一。しかしこっちが有利になったとは思えない。
「あれは、なんですか」
「知るか。アタシに分かるわけないでしょ」
暗殺人生の全てを振り返ってみても、こんなケースは初めてだ。
分析ができない。どう対処すればいいのか分からない。
のっぺらぼうの翼を生やした犬なんて、見たことがない!!
「レイとモモは!?」
「分かりません。合流していませんから」
「使えないわね……」
言葉は強いが照れ隠しだ。
実際、イリエはせつなに救われた。
彼女が止めていなければ今頃、相手の足の爪で切り刻まれていたはずなのだから。
ありがとうの一言を言えればいいのだが、これまでの関係から、気軽に言える一言ではなくなっていた……、というのはイリエの勝手な思い込みだ。言えるのだ、簡単に。
イリエが素直に言えばそれで済むだけの話なのだが……。
「モモの援護は、射線を通す戦場選びで意思疎通はできるわね。
レイの方は……私たちとは真逆の方にいるはず――、というかそっちに敵がいかなかったんだから、なにか対策を考えてくれてるはずだと思うけどね……、
考えていなかったら殴ってやるわ」
ようするに人任せだ。しかしそれしか手がないのも事実。
イリエとせつなにはどうにもできない相手だということが、痛いほど分かった。
毒が効かない。
ナイフも通らず、通っても不死であるために切り口ができた途端に治ってしまう。
そんな化物を相手に正面から戦おうと思うこと自体が間違いだ。
逃げる? もちろんそうするべきだろう、逃げられるのなら。
ルイはイリエとせつなの動きを一挙一動、見逃さない。
イリエが動く寸前、
実際の動きに繋がる筋肉の予備動作を見抜き、ルイがプレッシャーを放った。
イリエはそれに怖気づいて、体が固まってしまった。
覆せない上下関係が出来上がってしまっている。
膠着状態が続く。隣にいるせつなは、イリエ以上に動けなかった。
なんで出てきたのか、そう聞きたかったが、逆の立場であればイリエも出てきてしまうだろう。不仲だろうと、認めていなくても、共に広い森を抜けたのだ。
一時的なものでもパートナーであれば、見捨てるのはあり得ない。
イリエ先輩と呼ばれている……そう、せつなはイリエの後輩なのだから。
「……買い被り過ぎていたか」
「……なにがよ」
「あのメイドの仲間ならもう少し歯応えがあるかと思ったが、この程度か。別に期待していたわけではない。ないが、していない期待をまさか下回るとは思わなかったな……」
言い返してしまいそうになったが、結果が見えている今、反論するのはダサい。
いくら口で言ったところで、結果が伴わなければ嘘であり強がりなのだ。
「ルイを変える影響力があるなら、優先的に潰すつもりだったが……必要ないか」
つまりイリエやせつなは、鬱陶しくはあるが不都合ではない、のかもしれない。
「邪魔なことに変わりはない。後回しにしてもいいというだけだ……いずれ殺す」
「アンタは……、ルイ、と言ったわね? じゃあ、アンタが本物のルイではない……?」
「その確認を取っているところが、周回遅れだな」
自覚はあった。せつなのこともそうだ……、プロジェクト・ラプンツェル。
そしてルイのことも。
イリエは、業界歴が長いはずなのに、核心的な部分はほとんど知らない。
誰よりもこの世界で日々を積み重ねただけで、組織の中枢にいるわけではないのだ。
実力ではユキが。
内部事情についてはレイやモモの方が詳しい。
ルイのことも、ユキは既に知っているのだろう……、疲労困憊な姿が証拠だ。
教えられたわけではないのだろう。
ユキのことだ、イリエと同じように巻き込まれ、知っていった。
状況も条件も同じ。
にもかかわらず、イリエがまだ核心に触れられていないのは、単純明快な理由だ。
実力不足。
これは、イリエの手に負える一件ではない。
大きな背中についていくだけだとしても、命を落とす可能性は最前列と同じだけある。
手を引くべきだ……、ユキを連れ帰るとか、そんなことを言っている場合じゃない。
今までのように自分が優位に立っているわけではない。
相手の気分次第でこっちの命が掌握されている。
転がされるも潰されるも相手の裁量、一つで決まる。
……殺される。
イリエが標的を殺す時、相手はこんな気持ちだった……?
「今、更――」
今更だ。助けてなんて、言えない。
聞いてくれる保証はない。それにプライドが許さなかった。敵に助けを乞うだなんて。
「……嫌よ、逃げたくない」
イリエが力を振り絞る。唇を裂くように、声を吐き出した。
自覚してしまった恐怖に身を委ねることは、最後までしなかった。
暗殺者としてこれまでたくさんの人を殺してきた。
悪人か、善人かは、相手のことを細かくは調べなかったイリエには分からないが、理由もなくターゲットにされることもないだろうし……、殺されるだけのことをした人なのだろう。
上司が言うには、だが。
イリエがここで逃げれば、これまで殺してきた人に、顔向けできない。
死者に対して、そこまで責任を持ったわけではないが……、イリエは死者にバカにされるのを嫌ったのだ。人を殺した暗殺者が、殺されることに恐怖を抱くのかと――。
指を差されて笑い者にされたくなかったから。
それに、
「ユキを連れ帰らずに、尻尾巻いて逃げろって? ――できない相談ね」
ユキがいなければ生きていても死んだも同然な生活が待っている……。
張り合いがない生活なんてまっぴらごめんだった……だったら。
ここで散るのもまた、暗殺者としては美徳とも言えるだろう。
さすがに、それにせつなを巻き込むほど、先輩の地位を利用するつもりはない。
逃げても責めはしない。
レイかモモを見つければ、森から脱出することも可能なはず。
この一件にはもう関わらないことで、危険は遠ざかるはずだ。
すると、ぐいっと服が引っ張られた。
せつなが、指先でイリエの服の端っこをつまんでいた。
「…………」
「……ついていきます」
一人で先行しようとするイリエの決意を察知したのか、せつなが先んじて引き止めた。
指先でつまんでいるのは、固まって動かない体を無理やり動かしたからか。
…………可愛いやつ。そんな感想を胸の内にしまい、イリエが素っ気なく答える。
「勝手にすれば?」
無謀でも構わない、なにか取っ掛かりがなければ現状は変わらない。
蛇に睨まれた蛙でも、固まったままでは捕食されて終わりだが、飛び跳ねていれば反撃のチャンスが生まれてくれるはずだ。
「動けるか」
ルイが感心する。彼にとっても、意識的にプレッシャーを放っていたようだ。
威圧でイリエとせつなが体を硬直させることも理解した上で、警告のつもりでもあった。
動けば容赦はしない、と――言葉にこそしないが、伝わっていないはずがなかった。
イリエは分かった上で、足を一歩前に踏み出したのだから。
「動いてどうする。そっちの攻撃は通用しないぞ」
「そうね」
不死、加えて透明化。
イリエとせつなでは突破できない壁がある。
では、なんのために? ……知らない。イリエはまるで他人事のように切り捨てた。
できないからやらない、では、なにかを成し遂げることなんてできないだろう。
「無謀以上に、ただの馬鹿か」
感心を否定するように、ルイが呆れる。
一つの策もなく戦場に出てきたことを咎めるような視線だった……、
敵ながら心配をしてくれるとは、実は良い化物なのか?
状況は進展していない。
一直線に結末に向かっていないだけで、蛇行しているのだ。
できるだけ時間を稼ぎ結末への到着時間を遅らせる……、
蛇に睨まれた蛙状態であるイリエたちが蛇行しているだなんて、笑ってしまう。
現実はとても笑える状況ではないが。
「我々をなめているな?」
時間稼ぎをしようとして簡単にできると思っているイリエの心が見透かされた?
確かに、倒せずとも、逃げ延びることはできずとも、間を作ることはできると踏んでいた。
というより、それくらいできなかったら暗殺者としての自信の喪失だった。
これくらいできる。その甘さが、目の前の化物の地雷を踏んでしまった。
だが、それこそが、イリエが足掻いて掴み取った一瞬の隙になる――、
そう、蛙が飛び跳ねた結果、迷った蛇の前に立ちふさがる、天敵……が。
「――――!」
ルイが後退した。イリエには感じ取れなかった気配を察知したようだ。
誰かいる……、しかし透明化しているように、姿が見えない。
狙撃手であるモモほど遠ければ、ルイは危険視しないだろう、証拠にこれまで一度もモモの存在を警戒したことがなかった。放っておいても撃ち込まれるのは弾丸のみだ。
発射から到達まで時間のラグがあるのだ、目で見てからでも対処できるのだろう。
モモではない。そう遠くもない位置に、いるのだ。
彼女はゆっくりと歩いていた。隠れる必要もないと、堂々とした足取りで。
彼女のやり方。
もしかしたらまだ万全ではないからこそ、
その不調を隠すための自信満々の登場なのかもしれなかった。
ユキ・シラヌイ。
一日以上の睡眠を取った彼女の表情は、再会した時と比べてすっきりとしている。
足運びも軽く、万全でなくとも、暗殺者の中ではトップを独走できる実力がある。
「…………ユキっ」
助けにきてくれたことを嬉しく思うが、それを表情には出さずに、
(それでもニヤニヤと表情は緩んでしまっているが)
イリエはこの戦場を譲ってあげる、というスタンスでユキに声をかける。
「アンタみたいな目立ちたがり屋には嬉しい舞台で――」
しょ、と言い終わる前に。
ぱぁんっ、と、ユキの平手打ちがイリエの頬に鋭く突き刺さった。
「ふぇ……?」
思わずそんな声が出たイリエに、ユキが怒鳴るではないが、それでも怒りを見せ、
「ルイ様に人殺しをさせるつもりですか?
勝手なことをして勝手に窮地に陥らないでください。
実力を過信しましたか? イリエに対処できる相手ではないでしょう、あれは」
四足歩行の大型犬よりも大きな、翼を背中に生やした化物。
前例がない相手。
シンデレラ・オーバー現象だとしても、こんなケースは初めてだ。
「じゃあ……アンタなら、対処できるって言うの……?」
イリエは叩かれた頬をさすりながら。
普段からナイフで刺されたり殴られたりしているにもかかわらず、
ユキからの平手打ちは、今までのどれよりも痛かった。
叩かれた、という動揺からか、イリエは聞くまでもないことを聞いていた。
普段のイリエの口から決して出なかった質問だろう。
「ええ、当然です」
「ほお、私を止められると?」
「あなたは、グラシャ・ラボラスですか?」
「……知っているのか」
「いえ」
ユキが否定する。
「あなたのことを細かくは知りませんが、聞いただけです――蠅の王から」
「相変わらず、口が軽い……」
「さて、元に戻していただけませんか、ルイ様の体ですから」
「嫌だと言ったらどうする?」
「簡単ではありませんが、仕方ありません。――私も本気で対処します」
ルイが……いや、グラシャ・ラボラスが身構えた。
イリエとせつなを相手にした時には見せなかった動きだ。
彼が、ユキを対等な相手と認めた……?
「敵には程遠い。だが、喧嘩相手としてなら及第点になる」
「それでも光栄ですね。あなたたち、【悪魔】に認められるなんて――」
「誇りに思えよ、人間」
グラシャ・ラボラスの翼が、さらに大きく広がっていく。
肉の塊で作られたものなので神秘さはないが、雄大さは見えた。
「私が実力を認めた人間は、お前が初めてだ」
「では、あなたの目が曇っていなかったことを、証明しましょう」
スカートの中から、ナイフを二振り取り出すユキ。
くるくると手元で弄び、両手に逆手で持ち、腰を落とした。
ユキ・シラヌイの戦闘スタイル。
久しぶりに見る……いや、もしかしたら初めてかもしれない。
彼女の、本気の戦いを見るのは……。
今まで、本気で戦える相手がいなかった。
任務の標的は言わずもがな、
他の暗殺者もシンデレラ・オーバー現象も、ユキに匹敵するほどではなかった。
それが今、初めてユキの前に対等以上の強敵が現れたのだ。
本気を出さなければこっちが殺られる相手――。
その相手が【悪魔】という、人間ではないところが、ユキらしい。
ふう、と戦いの最中で一息ついたユキは、なにかを振り切るように。
「これはルイ様を救うための……」
イリエは気づかなかったが、ユキの鼓動はいつもよりも速く動いていた。
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